食べ物

2025年11月09日

そしてパンの話



水、米、に続いて、パン。

52:そしてパンの話
海外の食パンは日本ならサンドイッチ用に分類されるような薄切りばかりで、トーストといえばカリッとしたラスク様のものになる。
そう、これが不思議。外はパリパリ、中はもちもちの日本風厚切りトーストがない。初めてイギリスで食べた時、焼きすぎて焦げたやつを出されたのかと思った。

53:ピーナッツバターの沼
アメリカに着いて初めて入ったスーパーで目を引いたのが、このピーナッツバターの尋常ではない充実ぶりだった。プレーン、粒入り、チョコ入りなど様々な種類がなん列も横に並んで大きく売り場を占拠している。(中略)まったく甘くないうえに口どけが悪く、喉が詰まりそうなぐらい重い。
これも、同感。口内の水分を全部吸い取られそうなほど濃くて、口触りが悪いのだけど、慣れるとこれじゃないと満足できなくなる不思議。絶対カロリー高い。Crunchy(粒入り)が好きで、駐在中は切らさないようにしていた。

68:個人的一番のパンは、モロッコのバゲット
半分に折る。バリッと音が鳴って湯気が上がる。かぶりつくと表面はバリバリと音を立てるが、中はもっちり、噛んでいると小麦の濃厚な甘味が浮き上がってくる。





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2025年11月08日

地球三周の自転車旅



「環島」(台湾一周)中なので、自転車旅行の話題。石田氏は以前にも紹介したが、地球一周な自転車旅を7年掛けて行ったという、おそらく、日本記録の方。

本書はその世界一周以外にも、日本は勿論、世界一周で寄れなかった台湾などを走りながら食べた食事の話。その距離は、世界3周分にもなるという。


はじめに:喰って喰って喰いまくって地球三周
自転車は運動効率が特別にいいからか、カロリーも異常なほど効率よく消費される感覚があり、体中のエネルギーを根こそぎ持っていかれるように腹が減る。食べ物が目の前に来ると我を忘れ、無我夢中で喰う。食欲と感受性がむきだしになり、味がよければなんだか泣きそうになる。

大陸中央部の乾燥した地域を約8ヶ月旅したあと、カザフスタンから中国に入ったのだ。荒野を走って最初の町に着き、下町風の繁華な通りに入ったときは鳥肌が立った。通りの左右に飲食店がひしめき、白い蒸気や中華鍋を振るカンカンシャーシャーという音、野菜や肉を炒める香り、そんなものたちにワッと囲まれたのだ。

20:まずは水の話
自分の足と目で確かめてみると、地球は乾いた土地だらけだった。世界一周旅行では主に内陸を旅したせいもあるが、体感で7割ぐらいは荒野や砂漠の中を走っていた気がする。当然、水は貴重になる。

36:お次は米の話
米は世界中、どこでも簡単に手に入った。どんな僻地にもあったし、おまけにどこでも500gぐらいから買えたので、米に関してはむしろ海外のほうが旅しやすかったぐらいだった。


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2024年03月10日

血液を汚している要因



まだ独身の頃、長野の断食道場で5日間の断食をしてみたことがある。子供の頃、何かの病気で1週間寝込み、殆ど食べられないのに、最後のころ、真っ黒でべっとりした便が排泄された。その途端にスッキリして、翌日から急回復した経験があったから。それで、断食の効用になんとなく確信があった。
31:小食または断食をすると、排泄が促進される
1週間くらい断食すると、ものすごい口臭、汚い舌苔やタン、鼻汁、濃い尿、発疹など「老廃物排せつのオンパレード」に。
ただ、断食を自宅で行うのは、厳しい。家族が普段通り食べている中で、一人だけ我慢するのが難しい。やはり、断食道場などで、監視のもと、皆で同じ目的をもってやる方が簡単。

それとともに、毎日、朝食を減らすのはよさそう。朝食抜きでもいいのだが、私の場合、血糖値不足で、朝元気が出ない。
51:朝は「血液の浄化時間帯」
肉体労働者でないかぎり、1日3食は多すぎる。
・生姜紅茶(糖分は黒砂糖か蜂蜜を加える)
・ニンジン・リンゴジュース

39:血液を汚している要因
・食べ過ぎ
・運動不足
・ストレス
・環境汚染

46:発疹、炎症、高血圧、血栓、出血、結石などは自然治癒力で行っている血液浄化作用
これを無理に薬で抑えたり、または、そうした反応をする体力のない高齢者や虚弱者は、体内に血液を浄化する装置ができる=「がん種」=血液の汚れを集めて老廃物や有害物質を排出

60:血圧を下げる
・動物性食品<魚・貝類
・アルコールは適当に→HDL増加

70:高脂血症対策
*冷え性か水分の取りすぎ→脂肪が燃えない

92:動脈硬化
「人は血管とともに老いる」
・ニンジン(2本)リンゴ(1個)ジュース+セロリ(100g)




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2024年03月09日

体を温めて治す



日本人は、体の中が「氷河期」に入っているという。
13:体の中が「氷河期」に入った日本人
歴史上、これほど体温が下がり、体が冷えていることはいままでなかった。
・寒い時期でも南国の果物など「体を冷やす食品」を食べる
・ペットボトルの持ち歩きなど「水分の取りすぎ」
・運動不足で、特に下半身の筋肉・筋力が落ちている
・冷房の効きすぎ
実際、テルモの調査によれば、1957年の日本人の平熱は36.9度子供ではなく大人である。そして、2008年の調査ではこれが36.1度まで落ちている。10年で0.16度落ちているそれから15年経った今では36度を切っていると思われる。実際、周りで聞いてみても、平熱が35度台と言う人は多い。

その理由を、石原先生は上記のようにまとめている。「体を冷やす食品」とか逆に「体を温める食品」という概念は西洋医学にはなく、漢方の概念。確かに、昔は高級品のバナナを日常的に食べることはなかったが、今では冬でも毎日のように食べている。

面白いのは、石原先生が、今の日本人は「水分の取りすぎ」だという指摘。これも、35年前に留学した時、アメリカ人がどこへ行くにも水を持参し、授業中にも水を飲むのに呆れたのだが(イギリス人も驚いていた)、今では自分がペットボトルを持ち歩いて、一日中水を飲んでいる。これは、体を冷やすので良くない、というのが石原説。

では、アメリカ人の体温はどうなっているのか?これを見ると、アメリカ人も低下傾向にあるのだが、その下がり方は日本人より緩慢だ。50年で0.1度ほどしか下がっていない。現在の平熱は36.7度ほど(白人)。なるほど、日本に来て冬でもTシャツ1枚で歩いているわけだ。
19:体温が1度低下すると免疫力は▲30%
1度上昇すれば、免疫力5x
がん細胞は35度で一番増え、39.3度以上になると死滅。
というので、体を温めることは重要。

はじめに:体を温めて治す
現代人は体温がどんどん下がっている=多くの人が35度台
体が冷えれば、内臓のはたらきが悪くなり、疲れが抜けなくなったり、消化吸収が悪くなる。
現代人の体の不調や病気のほとんどの原因が、「体の冷え」


Nomura House-LAPTOP-MRTMUNG2


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2023年08月13日

餃子のまち宇都宮




宇都宮と言えば「餃子のまち」。だが、その歴史はそんなに古いことではなく、「餃子がまちづくりのために注目されたのは、1990年以降のこと」だという。
167:餃子のまち宇都宮
登録商標「宇都宮餃子」を扱う店舗は2022年時点で宇都宮市内に73店、市外に9店。
もちろん、90年以降に突然登場したわけではなく、そのルーツは満州にあると言われている。

170:第14師団
宇都宮には旧日本陸軍の第14師団の司令部が1907年におかれ、第14師団は1920年代から第二次世界大戦終結まで満州国に3回駐留。駐留後、兵士が宇都宮へ帰還する際に、(中略)餃子の味と製法を持ち帰ってきたとする説がよく知られている。(中略)引揚者の寮が宇都宮にあり、そこで100人規模の餃子パーティなるものが行われたりもしていた。
しかし、満州に駐在した部隊なら、他にもある。宇都宮に餃子が定着したのは、後に有名になる餃子専門店「みんみん」の開業が影響している。

171:みんみん
1952年ごろに宇都宮市江野町に「ハウザー」という健康食品店として開業し、1955年ごろに宇都宮市清住町に店舗を移転してから餃子が商品となった。みんみんの創業者である鹿妻三子氏は、戦時中に鉄道省職員であった夫ら家族6人と共に北京で暮らした。その際に子守や家事をする女中から中国の家庭料理として餃子を教わったとされている。
さらに、それだけなら、地元民だけが知る郷土食。餃子が「観光食」になったのは、宇都宮市が総務庁家計調査「餃子の一世帯当たり年間購入額が全国一位」であるのを研修で発見して、これを名物にしようと決めたから。
173:宇都宮市役所「政策形成研修」1990
1987年家計調査から餃子購入額が加わり、調査開始以来毎年1位。

1993年には、市の働きかけで「宇都宮餃子会」が発足する。
174:「5人のサムライ」
初代会長みんみん伊藤氏、加盟38店。
そして、それが一時のブームで終わらず今に続いたのは、2001年に「宇都宮餃子会」が任意団体から協同組合化され、翌年に「宇都宮餃子」を商標登録。その際に、使用基準、加入基準を制定したことが大きい。
177:「宇都宮餃子」商標登録
商標使用基準規則
・「本家」「本舗」「元祖」のような表現を餃子に付さない
加入基準
・宇都宮との濃厚な関係があることや、事業の実質的な本拠が宇都宮であること
定着したのは、組織化したからなのだ。しかし、安閑とはしておられず、現在では浜松市や宮崎市も「日本一のぎょうざのまち」として名乗りを上げている。
180:宮崎市
「ぎょうざ三強(宇都宮・浜松・宮崎)」という枠組みまで提案。




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2023年03月07日

食肉の消費拡大が飢餓を生む




生活が豊かになると食肉消費量が増える傾向にあり、この50年間で5倍になった。しかし、食肉生産は環境に多大な負担をかける。
63:食肉の飼料効率(食肉1kgの生産に必要な穀物量)
牛肉11kg
豚肉6kg
鶏肉4kg
そもそも、穀物生産にも大量の水を消費するので、食肉が拡大すると、必要な飼料がその何倍も増え、環境負担はけた違いに増す。大豆ミートの必要性が言われる所以だ。

59:飼料作物の生産地図
トウモロコシ主要生産国〜米国、中国、ブラジルの3カ国で世界生産量の6割
生産量で世界最大の穀物トウモロコシ「工業化された農業の代表」
米中西部の穀倉地帯
GMOトウモロコシが数百km四方にわたって栽培され、化学肥料と農薬を科学的に散布、ドローンや大型農業機械で播種、収穫まで行う。

60:大豆
2020年生産量は3.5億万t=1980年の4.4x
年平均伸び率3.8%(トウモロコシ2.7%)
ブラジルと米国で世界の66.3%

72:漢字の「家」
豚の上を屋根が覆っている意味で、人間とひとつ屋根の下に暮らす姿を象形化。


食肉消費


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2022年06月03日

味噌の分布

魚醤とナレズシの研究 石毛直道、ケネス・ラドル1990

「日本の味付けの地域性を語る指標としては、醤油を持ちいるよりも、むしろ味噌で語る方が適切」だという。

335:はやくからマニュファクチャーの商品化した醤油よりも、農家では自家製が原則であった味噌のほうが、その地域における原料の生産条件や気象条件を反映して、地域性をよくしめす食品。

もともとは、醤油もそれぞれの地域で小規模につくられていたが、輸送費が相対的に安くなり、大量生産する醬油メーカーがスーパーマーケットの普及とともに、全国シェアを増やしていく。

336:味噌つくりには、ダイズのほかにコメ・ムギなどが配合される。味噌の種類の分布をおおまかにのべるならば、信州味噌・仙台味噌などの辛口の米味噌は、東北地方、天竜川以東の中部地方と北陸・山陰で利用される。愛知・三重・岐阜の、ダイズのみを原料として使用する豆味噌地帯となっている。その西側の近畿・山陰、四国の近畿寄りの地方は甘口の米味噌地帯で、西京味噌がその代表になっている。四国の西半分、山口県と九州全域は麦味噌地帯である。 
香川県は甘めの米味噌だが、同じ四国の瀬戸内沿岸でも、隣の愛媛県は麦味噌というのが興味深い。


306:東アジアから東南アジアの島嶼部にまでひろがる魚醤とナレズシの分布圏のなかで、現在、魚介類の発酵食品の種類がもっともおおく、食生活における重要度がたかいのは東南アジア大陸部。
‖舂ι瑤巴舷綉産のさまざまな魚醤が発達している
▲淵譽坤靴話舷綉でつくるのを原則として、第二部でのべたように、大陸部を起源地として、マレー半島部・島嶼部に伝播した可能性がたかい
3せ叉の塩辛はフィリピンでつくられるが、他の地域では一般的ではない
ぞエビ塩辛ペーストは大陸部の沿岸から、マレー半島部・島嶼部にまで分布する



うま味文化圏

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2022年06月02日

魚醬と穀醬

魚醤とナレズシの研究 石毛直道、ケネス・ラドル1990

魚醤研究の名著だが、絶版になっていて、Amazonでの中古出品も無し。

醬は「肉の酒」という意味で、肉や魚から作った「醤」のほうが、穀物から作る「穀醬」より歴史は古い。東アジアでは、製造コストが安く、香りのよい醤油が開発されて、肉醬や魚醬は駆逐されていくが、東南アジアでは漁業資源が豊富で、今でも魚醤のほうがよく使われる。

352:醬は肉の酒
古代中国における「醬」とは、もともとは肉や魚を原料とした発酵製品のこと。醬の文字の構成要素に肉・酒。コウジを入れて発酵させるという製造原理は、酒造法に起源。
前漢になるまで穀醬は出現せず、醬といえば、肉醬か魚醤のこと。穀醬には、豉の系列と穀物コウジを使用する系列の二系統。いまのところ中国で穀醬の存在が最初にわかっているのは、豉の系列に属する製品。

まえがき:1980~84年のあいだ、国立民族学博物館で石毛を研究代表者とする共同研究「東アジアの食事文化」がおこなわれ、ラドルはその研究班の一員として参加していた。漁業生態学を専攻するラドルと、食事文化に興味をもつ石毛に共通する研究テーマとして、魚醤をとりあげてみようということになった。

11:魚醤
生の魚介類を主な原料として、塩を加えることによって腐敗を防止しながら保存し、主として原料に含まれる酵素の作用によって筋肉の一部が溶けて構成要素のアミノ酸類に分解することを意図して製造した食品。

動物の死骸を放置しておくと、肉がくさりはてて最後には骨だけになってしまう。そのさいには外界のバクテリアが作用して細胞や組織を分解するばかりではなく、生物の内部からも分解がおこる。たとえ無菌状態で保存しても生物体の分解は進行する。それは、生物が死ぬと体の中にある各種の酵素、とくにタンパク質分解酵素が細胞・組織に作用して無機物に分解してしまうからである。これを自己消化という。

114:庵治町のイカナゴ醤油(香川大学農学部・真部正敏教授)
4〜6月に漁獲されるイカナゴを水洗いし、2〜3石入りの桶に仕込む。桶のなかにイカナゴと塩を交互にいれ、桶の上面を松葉でおおう。落し蓋・重石はしない。イカナゴと塩の量の割合は容量比で1:1、塩分濃度で35〜36度ボーメに調整する。3〜4ヶ月でイカナゴの魚肉・内臓は溶けてしまい、液体化する。これをくみあげて使用する。

181:ナンプラー(タイ)
タイには中国系の住民がおおいが、他の家内工業や商業的活動と同じように、魚醤油・塩辛・小エビ塩辛ペーストを工場生産するさいの業者や魚醤の仲買人のおおくは、中国系住民によって占められている。醤油は中国人の調味料としてタイで製造されるようになったものであるが、現在ではタイ料理にも使われるいっぽう、中国系住民も家庭での日常料理には魚醬油を使うことがおおく、醤油にこだわるのは年寄りの世代だけであるという。

351:魚と大豆の互換性
「畑の肉」とよばれるダイズには、良質の植物性の蛋白質と脂肪が大量にふくまれている。ダイズの蛋白質を構成するアミノ酸のなかで、いちばんおおいのはグルタミン酸である。現在、商品作物としてのダイズの栽培は、アメリカやカナダなどでもおこなわれ、日本にも輸入されているが、伝統的にダイズを栽培してきた地域は、東アジア、ヒマラヤ南麓地帯、東南アジアである。


うま味文化圏


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2022年03月20日

吉本隆明の月島ソース料理

ラブレーの子供たち
四方田 犬彦
新潮社
2005-08-24



吉本隆明は月島で育ったそうだ。月島といえば、もんじゃ焼きが名物。それと並んで、「肉フライ」も、庶民のおやつや酒の肴として有名だったらしい。
186:肉フライ(レバカツ、レバフライ)
東京月島にしかなかった料理。牛の肝臓を血抜きし、薄くスライスしてパン粉を振り、トンカツのように揚げた料理。手で持ちやすいように串が刺してあって、あつあつのフライをソースにザブリと漬け、からしを塗って食べる。戦争前、トンカツが1枚15銭の時代に、同じ大きさで2銭だった。

この章を読んでいて驚いたのが、ウースターソースは「イギリス人が日本の醬油にヒントを得て考案したこの調味料」という部分。そんな説は聞いたことがない。
イギリスの元祖ウスターソースは、モルトビネガー等の食酢およびアンチョビ、タマリンドエシャロットクローブ、タマネギ、ニンニク、香辛料、糖類、塩などを材料にしている。同様に日本のウスターソースも、ニンニク、トマトリンゴなどの野菜・果実類に、糖類、食酢食塩香辛料でん粉カラメルなどを加えて作る。両者は外観・風味ともによく似ているが、日本のもののほうがやや甘みが強く、辛みや酸味が控えめである。(Wikipedia)
あいにく、学術書でない本書には出典の記載がなく、真偽のほどは確かめられなかった。上記、Wikipediaによれば、日本で最初にウースターソースを売り出したのは丸善。洋書だけでなくさまざまな「舶来品」を輸入販売していた。最初に国産化したのは、ヤマサ醬油。明治18年(1885)「新味醤油」の「ミカドソース」として売り出したが、売り上げ不振で1年ほどで製造中止。

現存する最古のソースメーカーは「阪神ソース」だそうで、こちらは、丸善に勤めていた創業者の安井敬七郎が
明治18年(1885)輸入ソースをもとに開発したものだという。

とにもかくにも、ウースターソースは貧しい庶民の万能調味料として、大活躍していたらしい。

吉本さんにとって肉フライとは、外で食べる食べ物の代表。その逆に月島の家でいつも食べていたのは、ジャガイモのソース煮込みだった。
この料理の作り方は簡単である。まず大鍋にブツ切りにした大量のジャガイモと、細めに切ったタマネギと油揚げを入れる。ソースをドボドボと注ぎ込み、水で薄める。これを全体に汁気がなくなる程度にまでクツクツと煮込み、ソースが染みこんだジャガイモが崩れかけだしたあたりで火を止めるというのが、コツだ。後はめいめいがご飯の上にそれをブッかけて、口に運ぶだけ。

193:いずれもがウースターソースを基本とする
月島を下町と呼んでいいかは歴史的に疑問であるが、ともあれこのソースの味が下町料理の根本にあることだけは認められると思う。イギリス人が日本の醬油にヒントを得て考案したこの調味料は、日本の近代化のなかで思いもよらぬノスタルジアを育むことに成功したのである。


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2022年03月19日

開高健のブーダン・ノワールと豚足

ラブレーの子供たち
四方田 犬彦
新潮社
2005-08-24



大阪で生まれ育った開高が勤めたのは寿屋。今のサントリーだ。入社して2年後の1956年に東京支店へ転勤となり、杉並区の社宅に入る。

さらに2年後、「裸の王様」で芥川賞を受賞したのを機に寿屋を退職し、嘱託となる。社宅を出て住んだのは、近所のやはり杉並だった。

1974年に茅ヶ崎の東海岸に仕事場が完成し、移住。1989年に亡くなるまで、ここに住んだ。その自宅は、現在「開高健記念館」として公開されている。


147:開高健『日本三文オペラ』
廃墟から無断で金属資材を盗み出す在日朝鮮人たちが、豚の胎児の刺身や羊水のスープに舌鼓を打つし、『夏の闇』の主人公は愛人の女性にむかって、仔牛の睾丸のフライから牛の腎臓、胃袋の煮込みまで、内臓料理の蘊蓄を傾ける。

149:開高は超高級なフレンチ・ワインの瓶の底に溜まった澱について語ると同時に、こうした「現地」の、いかにも庶民的な食べ物を前に、いささかの躊躇もなく広大な食欲を発揮するところがあった。それが小説家としての彼に混沌とした魅力を与えている。

152:開高健は一般的にグルメ作家であると見なされているようだが、生前に彼の近くにいた菊谷匡祐の『開高健のいる風景』を読むと、美食家というよりは食いしん坊といった印象の方が強い。少年期から成人にいたるまで、ただひたすら空腹を満たすためだけに食物をかっこむことしか知らず、味覚を満足させるに足るものをほとんど食べてはいなかったのではないかと、菊谷は推測している。


ウクライナ応援コンサート

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2022年03月12日

ジョージア・オキーフの菜園料理

ラブレーの子供たち
四方田 犬彦
新潮社
2005-08-24



アメリカモダニズムの母」と言われるアメリカの画家ジョージア・オキーフ(1887~1986)。草間彌生の支援者としても知られている。人生の後半をニューメキシコの自宅で過ごした彼女は菜園料理でも有名だったらしい。

83:オキーフが生前に好んで作った料理は、大体が素朴にして単純である。およそ当世風の流行を追うとか、遠来の客の歓心を買うためにトッピングに凝るとかいった身振りからほど遠い。彼女はほとんどの食材を自分の菜園のなかで賄っていて、入手に困難なものをあえて求めようとはしなかった。けれどもその調理のしぐさの一つひとつが丁寧で、素材を傷めないように自然の配慮がなされている。

86:「スープとは慰めである」(オキーフ)
レシピブックには実にさまざまなスープが遺されている。

アヴォカドのスープ
熟れきった中身とミルクを混ぜ、カレー粉を少し振りかけて、ミキサーで混ぜておく。これをとろ火で温めるわけだが、けっして煮立たせてはならない。これで完成だが、最後にさらにわずかのカレー粉を加えてもいい。細かく刻んだチャイヴかパセリを載せるという手もあり、好みで白胡椒を振ってもよい。

イトクロ

































ジョージア・オキーフ「レッドカンナ」(1919年)

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2022年03月06日

谷崎潤一郎の柿の葉鮨

ラブレーの子供たち
四方田 犬彦
新潮社
2005-08-24



小文字でchinaと書けば磁器のことで、japanと書けば漆器。1644年に中国は清王朝となり、海禁令が出る。要するに鎖国するのだが、清の場合は、海外との貿易まで禁じた。

人気の中国製品が輸入できなくなって困ったオランダ東インド会社は、日本に輸入の代替先を求める。それで伊万里焼が大いに栄えるのだが、漆器がjapanとなったのは、それだけ漆器も輸出されたという事だろう。陶磁器が有名で、漆器貿易のことはあまり聞いたことがないのだが。

75:谷崎潤一郎(1886~1965)
谷崎が生来的に抱いていた幼児性退行の嗜好、いわゆる子供っぽさは、彼の文学のいたるところに発見できる。30歳台で発表された『美食俱楽部』を読むと、5人の美食家が東京の某所に集まり、豪奢のかぎりを尽くして究極の料理を索めるさまが、一種異様なグロテスクのもとに描かれている。

78:漆器の肌の美しさは「幾重もの『闇』が堆積した色であり、周囲を包む暗黒の中から必然的に生れ出たもの」であるとされる。日本料理の吸い物椀は陶器ではなく、ぜひとも漆器でなければいけない。

柿の葉鮨のことが語られるのは、この『陰翳礼讃』の一番最後、本論が一通り終わった後のところである。明治維新以来の日本の変遷はそれ以前の300年、500年に相当するだろうと述べ、いかに純日本風の町の情趣というものを大阪や京都といった大都市に見つけることが難しくなったかを嘆く。食べ物にしても同様で、もはや大都市では「老人の口に合うようなものを探し出すのに骨が折れる」。


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2022年02月20日

キャンベルスープ

ラブレーの子供たち
四方田 犬彦
新潮社
2005-08-24




コカ・コーラと並んで、アメリカ食文化の象徴ともいえるキャンベルスープ。アンディ・ウォーホルの絵で有名だが、では、日本人でどれだけ食べた人がいるだろう?

本書の著者である四方田先生はNYに住んでいたこともあるのだが、一度も食べたことがなかったそうだ。それはそうだろう。人種のるつぼのNYには世界各国の美味しい食品がすぐそこにある。

私はかつてMAの田舎に住んでいたが、週末に車で1時間のボストンに行けば、中華街もユダヤ人街も、イタリア人街もある。わざわざ缶詰を食べようとは思わなかった。

四方田先生は、本書を書くために、キャンベルスープを入手し、編集部も含めて10人ほどで食べてみたそうだ。


「試食の感想をまとめて報告すると、トマト味のものは、ストレートタイプのものも、ライス入りのものも、全体的に甘くて柔らかい感触である。(中略)チキンヌードルは、日夜カップヌードルの類で舌を磨いて(?)いる日本人には、麺の柔らかさがどうにも納得できない。何十ものエスニック集団をかかえたアメリカで、誰もがそれなりに受け入れられる味を考案すると、たぶんこうした感じになるのだろう」


私も、チキンヌードルを一度だけ食べた覚えがあるのだが、全く同じ感想。ヌードルの頼りなさと言ったら、細いだけに伊勢うどん以上だ。

不思議だったのは、アメリカの美味いイタリアンに行っても、パスタだけは柔らかすぎること。おそらく、当初はイタリア系だけを相手にアルデンテだったのだろうが、客層が広がるうち、「硬すぎる」と言われて、こうなったのだろうか

48:アンディ・ウォーホル(1928~87)
チェコスロヴァキアの貧しい農民を両親に持ち、ピッツバーグの工科大学を出て、高校の美術教師を目指したが、あっけなく断られた。その後、一念発起してNYに移る。ロアー・イーストサイドのボロアパートで貧乏生活を続けながら、商業デザイナーとして頭角を現した。

51:Campbell
1869年に、NJの青果商ジョセフ・キャンベルが知人と共同出資で缶詰会社を設立。1897年に濃縮スープの開発に成功、翌年に赤白ラベルのデザインのスープ缶が発売された。

55:キャンベルスープの、どこまでも深みを欠いた風味は、このウォーホルの理想とする匿名性に、みごとに見合っているように感じられる。どの缶の中身も、最終的に同じに思えてくる。どこで食べても、いつ食べても、また誰が食べても、つねに変わらぬ味という概念。19世紀が終わろうとすることにそれを実現させたキャンベル社は、すでに半世紀後のポップアートの到来を予言していたのではないだろうか。世界中から差異という差異を消滅させてしまえというアメリカ的なるものの意志が、そこには明確に感じられる。


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2022年02月19日

多くの芸術家は食いしん坊だった

ラブレーの子供たち
四方田 犬彦
新潮社
2005-08-24


古今東西の芸術家が食べていたものを再現し、実際に食べてみるという本。

まえがき:歴史を振り返ってみるなら、多くの芸術家は食いしん坊だった。それは単に食欲の問題である以上に、彼らが生来的に抱いていた、世界に対する貪欲な好奇心に見合っていた。ある者たちは優れたレシピ集を残し、別の者たちは後世の伝記を通して、その健啖ぶりが伝えられた。彼らは、洋の東西を問わず、ラブレーの子供たちなのである。

第一章「ロラン・バルトの天ぷら」から始まる。ロラン・バルトは知らなかったが、日本文化の本質を見抜くその感性と、またそれを分かりやすく言い換える四方田犬彦の筆力がスゴイ。

ロラン・バルト(1915~80)
フランスの文芸評論家で記号学者。『記号の国』

11:日本という社会は、これまで自分が体験してきたどこの社会とも違っていると、バルトは溜息をつく。ここには外側だけがあって、実質に満ちた中心というものがない。(中略)記号の表面だけがどこまで重視され、内容が空虚のままに取り残されている社会。それは自分を長らく縛り付けていた西洋文明のもつ記号のあり方からすれば、まるでユートピアのような場所。

13:天ぷらには、いかなる揚げものも獲得できなかった、すがすがしさという特性がある
地中海料理も中華料理もともに油の重さから自由ではないが、唯一、天ぷらだけがそれから自由である。

「お客がお金を出して求めるのは、食材でもなければ、その新鮮さでもなく、揚げかたの清らかさなのである」

「油の処女性」
かつてポルトガルからもたらされたこの料理は、数百年のうちに完全に作り変えられた。それは一瞬のうちに生まれ、空気のように軽やかな、脆弱にして新鮮な食べ物、無のかたわらにある食べものへと変貌した。それは記号の空虚を示していると、バルト先生は託宣する。


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2022年01月25日

ノーベル賞受賞者の蹉跌

禍いの科学 正義が愚行に変わるとき
ポール・A・オフィット
日経ナショナルジオグラフィック社
2020-11-19



ノーベル賞受賞者が、人間として信頼できるかどうかはまた別という話。ノーベル賞は研究を評価するのであって、その人の人間性を評価しているわけじゃないから当たり前だが、ノーベル賞学者が言うことを何でもありがたがるのは考え物。

特に、専門外の分野での発言は全く当てにならない。ところが、ノーベル賞の名声を利用して、商売しようという取り巻きも現れて、担ぎ上げられることもしばしば。科学的に否定されたにも拘わらず、一旦広まった俗説は、関係者皆が恩恵を受けているので一向に衰えない。未だにビタミン剤が世界中でありがたく飲まれている。

ノーベル賞を後ろ盾にした米国の化学者が、宣伝文句の定番に「抗酸化」を仲間入りさせた。彼のアドバイスに従った人々は、がんと心臓病のリスクを高めた。さらに、ハワイで突然肝臓移植が必要になったり、米国北東部で女性が男性化するという奇妙な症状が現れたりと、現在にも悪影響を残している。

220:ライナス・ポーリング1901-94
現代のビタミン製造業者が年間数十億ドルを売り上げる商売ができるのは、一人の男のおかげだ。その人物は、ノーベル賞を受賞した科学者で、自分の専門分野とはまったく畑違いの領域で、サプリメントでビタミンをたくさんとれば、健康に長生きできると世間に信じさせた。しかし実際のところは、がんと心臓病のリスクを高めるだけだった。

異なる分野で2つのノーベル賞を受賞した唯一の人物
1954ノーベル化学賞「化学結合とたんぱく質の構造」
1962ノーベル平和賞「核実験禁止条約」への貢献

222:転落の始まり
厳密さに欠ける性格。
1966メガビタミン療法にのめり込む。間違いを指摘する研究結果がどんどん出てきたにもかかわわらず、無視。

227:長い間、優秀で正しい人間として生きてきたため、自分が間違いを犯すなどとは想像もできなかった。本当に間違いを犯してからも、それを認めることができなかった。

230:1994米国国立がん研究所+フィンランド国立公衆衛生研究所
ビタミンを大量に投与されたグループは、肺がんによる死亡率が下がるどころか、高くなる。

232:抗酸化物質を多く含む果物や野菜をたくさん食べる人は、がんや心臓病にかかりにくい
→人工の抗酸化物質を大量に摂取しても同じ結果になる(ポーリング)
酸化は、新しいがん細胞を殺し、血管の詰まりを解消するためにも必要。
大量のビタミンやサプリメントを摂取すると、酸化と抗酸化のバランスが崩れ、がんや心臓病のリスクを高める。

233:キャサリン・プライス『ビタマニア』
リンゴ半分のビタミンCは5.7mgだが、1500mgのビタミンCに匹敵する抗酸化作用。
フィトケミカルがビタミンの効果を高める。

243:カーテンの後ろにいる小男に注意しろ
世間の評価に目をくらまされてはならない。
ポーリングは「オズの魔法使い」効果を頼りに、ビタミンとサプリメントを奇跡の薬として宣伝した。彼はカーテンの後ろにいる男(データ不足という弱点)に世間が気づかず、2つのノーベル賞を獲った自分がとどろかせる声だけを聞いてもらいたいと願っていた。


shikoku88 at 18:54コメント(0) 

2021年01月03日

貝塚をつくる




本書三作目は、『貝塚をつくる』。舞台は陥落前の南ベトナムの首都サイゴンである。

ここで小説家は、釣りバカの華僑実業家と知り合いになり、カンボジア国境のシャム湾での海釣りに招待される。船をチャーターして2週間の釣り天国である。サンパン船上で食べるドリアンの描写が素晴らしい。

私が初めてドリアンを食べたのは、LA郊外に住む、ベトナム人一家の自宅でだった。ベトナム難民だった夫婦はしばらく、当時私が住んでいたマサチューセッツ州の田舎町で唯一の日本料理店をやっていた。二人ともベトナム生まれの華僑だったので、日本料理なんて何も知らなかったが、知らないのはその町に住むアメリカ人も同じだ。

私が帰国後、彼らは店をやめ、LA郊外に引っ越した。何年か後に、家族で旅行した時に連絡を取り、数日間滞在させてもらった時に出てきたのがドリアン。ベトナム人には欠かせないものらしい。確かに臭いが、果物らしくないあの濃厚な味には衝撃を受けた。

以来、東南アジアに出かけた時など、機会があれば食べるのだけど、海上で食べたことはない。これを読んで、ぜひ、船上で潮風に吹かれながら食べたくなった。

65:カー・ヴォンラウというのはナマズの一種である。海にも棲むが、海水の出入りする河口の汽水域の泥底にも棲む。ヒゲがあって猫のような顔をしているということで他のナマズとおなじだが、銀・灰・青色をしていて、美しいのである。

86:船べりにくくりつけたコールマン・ランプのほのかな円光のなかで水面をすかしてみると、上下左右、縦横無尽の吹雪である。それがありありと見える。生命体と非生命体の阿鼻叫喚なのである。猛吹雪である。

90:ドリアン
豊熟の一歩手前のこの果実はむんむんと芳烈な香りのさなかにくっきりと爽涼をも含み、まるで細い、冷たい渓流が流れるようなのだ。豊満と爽涼のこの鮮やかな組合せがあまりに絶妙なので、いつまでも味わっていたくなり、果肉を食べるのをあとへあとへとのばしたくなる。


shikoku88 at 20:55コメント(0) 

2020年10月17日

最強の栄養療法



同じ著者で4冊目になるが、新書も読んでみる。当然ながら内容はほぼ同一。ただ、新書版は、オーソモレキュラー療法が研究された歴史や、それにまつわる医学会のエピソードも含まれ、そちらの方が興味深かった。

オーソモレキュラー療法は、アメリカ人生化学者で医師のホッファー(Abram Hoffer 1917-2009)と、カナダ人化学者のポーリング(Linus Carl Pauling 1901-1994)によって開発された。

2人の研究は臨床試験の裏付けがあったにもかかわらず、学会から無視され、誹謗中傷された。それまでの定説と全く違っていたからだ。1950年代に開発され、現在も使われている統合失調症の薬剤(症状は抑えられるが、強い副作用)を使わずに、食事療法で治るというのでは面目が失われる。

過去にあった似た例として、大航海時代に船員の最大の死因であった壊血病が挙げられている。この時も、イギリス海軍医であったジェームズ・リンドは、レモンやオレンジを食べることで壊血病の患者が元気になることに気づき、実際に遠洋航海にレモンやライムを積み込み、船員に食べさせたところ、壊血病が撃滅した。ところが、その報告は、「一介の海軍医からの提案」ということで、王室に近い海軍本部医師団から無視される。

結局、リンドの案が採用されたのは50年もあとのことで、それは、地位も階級も高かったギルバート・ブレーンがリンド説を採用したからだった。

日本での似た例として、明治時代の「脚気」がある。ビタミンB1不足で末梢神経が侵される病気だが、将兵の贅沢の象徴として白米を採用していた明治時代の日本軍でもっとも多い病気だった。海軍の遠洋航海では半数が発症し、5%が死亡したといわれている。

海軍の高木軍医部長は、イギリスには脚気が存在しないことや、海外寄港中には発症しないことから、航海中の食事に原因があると推測した。試しに、同様日程で遠洋航海に出た2隻の一方をそれまで通りの白米、もう一隻を麦飯に変えたところ、麦飯を食べた船では一人も脚気にならなかった。

それで海軍は麦飯を導入することにしたのだが、これを認めず、明治時代を通して10万人以上の脚気犠牲者を出したのが陸軍。それは、陸軍医務局長の森鴎外(のちに軍医総監)が「細菌説」を取り、白米を出し続けたからだ。これには、森鴎外が帝国大学医学部出身で、同学部も「細菌説」を取っていたことが影響している。

医学こそ科学を徹底してほしいが、誰もが関心を持つ分野で巨額の資金も動くため、権威や権力とも密接。証明が困難で、事実が捻じ曲げられることも多い。

はじめに:病院に行ったり薬に頼ったりする前に、食べ物に注意したり、不足している栄養素を追加するなどして対応できることがたくさんある。

46:天才化学者ポーリングによる理論の確立
Linus Carl Pauling 1901-1994
1954ノーベル化学賞(化学結合の本質)
1962ノーベル平和賞(核実験への反対)
1968"Orthomolecular psychiatry"論文発表@Science

48:栄養学・医学の新説は常に迫害を受ける
ホッファーやポーリングに限らず、常に権威との戦い。
1747イギリス海軍医であったジェームズ・リンドは、レモンやオレンジを食べることで壊血病の患者が元気になることに気づく。←王室に近い本部医師団は無視
50年後、ギルバート・ブレーンがリンドの説を採用→航海に柑橘類を載せる→英海軍の壊血病激減(ブレーンは地位も階級も高く、本部医師団が無視できなかった)


shikoku88 at 19:36コメント(0) 

2020年10月09日

オーソモレキュラー栄養療法




同じ著者による漫画版なので、内容はほぼ同じ。だが、もともとペインクリニックを経営していた著者がどうしてオーソモレキュラー栄養療法の専門家になったのかが書かれており、そちらに興味をもった。

きっかけは奥さんの激しいめまいだったという。精密検査でも異常は見られず、原因が分からないままに、めまいを抑える薬や、漢方薬治療をしたが、改善が見られない。医者であるにもかかわらず、民間療法に頼り、最後はお祓いまでしたという。

そんなときに、オーソモレキュラー栄養療法で、「食事を変えて、サプリメントを飲んでみては」とアドバイスしてくれる先輩がいた。藁にもすがる思いで試してみたところ、劇的に改善したという。

めまいで倒れたとき、奥さんは血液検査もしていた。その結果はどれも正常値だったが、オーソモレキュラー的に各栄養素を分析してみると、実際はさまざまな栄養不足があった。それを適切に補充しただけで健康を取り戻すことが出来たのだ。

オーソモレキュラーを勉強することにした著者は、次に、自らの体質改善にも取り組む。著者は小さなころからアトピー性皮膚炎と花粉症に悩まされていた。医師になってからのハードワークと不規則な生活で両方とも悪化し、最強のステロイド軟こうでアトピーを抑え、花粉の季節には抗ヒスタミン薬やステロイド薬で乗り切っていた。

それが、オーソモレキュラー療法を実践してからは、薬が全く不要になったという。花粉症もアトピーも同時になくなった。アレルギー体質が改善したのだ。これを病院や患者さんの治療に応用したところ、同じ改善結果が得られた。

アレルギー反応というのは、体内の免疫システムの誤作動だ。体内に異物が入った時、それを免疫システムが攻撃するが、それがそもそも誤認(悪性ではないのに攻撃)であったり、過剰反応で自らを傷つけてしまう。

体内に必要な栄養素だけを取り込み、不要なものを取り込まないようにしているのは粘膜で、アレルギー疾患を抱えている人は粘膜が弱いという。その粘膜を作っているのはもちろんたんぱく質で、それを理想的な状態で維持するのに必要なのはビタミンD。従って、ビタミンDが含まれる食品を積極的に摂り、不足するならサプリメントで補う。さらに、ビタミンDは紫外線を浴びることで合成されるので、日光にも当たった方がいいということ。

39:オーソモレキュラー栄養療法(分子整合栄養医学)
病気や体内の炎症は、細胞の栄養不足から始まる。
たんぱく質、鉄、ビタミンB群、亜鉛といった特定の栄養素が不足している人が多い。

106:花粉症とアトピー性皮膚炎
アレルギー反応=体内の免疫システムの誤作動
「粘膜を理想的な状態で維持する」今日食べたものが3日後の粘膜の状態を作っている。
ビタミンD摂取で花粉症とアトピーが劇的に改善。
日本食=ビタミンD多い(鮭、イクラ、うなぎ、さんま、いわし、ししゃも、しらす、しいたけ、きくらげ)*天日で乾燥させたもの!機械で強制乾燥させるとビタミンDが壊れる。

115:サプリメント
ビタミンD=1日2000IUは摂った方がいい。
25ビタミンD3


shikoku88 at 18:59コメント(0) 

2020年10月08日

うつが消えた人は何を食べ、何を食べなかったのか?




オーソモレキュラー栄養療法の続き。前回は、どういうメカニズムで「脳の栄養不足」が起こり、結果としてそれが心身の不調をもたらすかという話だった。本書は、「何を食べ、何を食べない方がいいか」が中心(下図)。

大体はよく言われる「体にいいもの、悪いもの」の常識と同じなのだけど、意外なのが、(下図には載ってないが)「牛乳、チーズ、ヨーグルトなどの乳製品」がダメだという点。

これは乳製品にはカゼインというたんぱく質が含まれ、小麦に含まれるグルテン同様、集中力低下、イライラの原因になるから。両たんぱく質とも、アミノ酸配列が麻薬様物質と似ているため、脳内で麻薬のように作用する。これが食べたときの幸福感につながるのだが、習慣化して中毒症状となり、結果として躁鬱症状を引き起こし、脳の疲労感・抑うつ感をもたらす。

甘いものや麺類、あるいはチーズなどを食べたときの幸福感を考えると、さもありなん。しかし、全くダメというのも、人生の一部が否定されたかのよう。絶対禁止は潜在意識に刷り込みそうで、余計に意識してしまいそうだ。とりあえず、炭水化物と乳製品を控え、たんぱく質を増やすことにしよう。

ホモ・デウス動物

























うつがよくなる食べ物:
・肉や魚
・卵
・豆腐、納豆などの大豆製品
・ピーナッツ、アーモンドなどのナッツ類
・DHA,EPAが多い油
・中鎖脂肪酸の油(ココナッツオイル、MCTオイル)
・野菜、きのこ類などの食物繊維
・漬物、キムチなどの発酵食品

うつが悪くなる食べ物
・ぼはん、パン、パスタなどの糖質
・チョコレート、ケーキ、ドーナツなどの甘いもの
・天ぷら、ギョウザ、お好み焼きなどの小麦製品
・果物ジュース、野菜ジュース、清涼飲料水
・牛乳、チーズ、ヨーグルトなどの乳製品

59:うつを引き起こす5つの栄養トラブル
’召留浜槁埖
・たんぱく質不足
・ビタミンB群不足
・鉄不足
・亜鉛不足
腸の不調
腸のトラブルで栄養素の消化・吸収ができない。
E質の取りすぎ
糖質の過剰摂取で血糖調整障害が起こり、自律神経が乱れる。
で召遼性炎症
炎症により脳細胞が変性(まだ解明されてない)。
ゥ曠襯皀鵑留洞
副腎や甲状腺などのホルモン分泌器官のトラブルでホルモンバランスが乱れる。

66:必要たんぱく質量
体重1kgあたり1-1.5g(体重50kg→50-75g)

67:プロテインスコア
生卵 100
アジ 89
牛肉 80
大豆 56
豆腐 51
*加熱処理すると半減

120:夜間低血糖
寝ている間に起こる無自覚な低血糖=就寝中に急激な血糖値の低下が起こると、睡眠の途中で目覚めてしまう。寝る前に糖質を取らない!

100:集中力低下、イライラは小麦、乳製品のせい⁉
グルテンは小麦に、カゼインは乳製品に含まれているたんぱく質。アミノ酸配列が麻薬様物質と似ているため、脳内で麻薬のように作用する。→中毒症状、躁鬱症状→脳の疲労感・抑うつ感

カゼインを含む食べ物(乳製品)
牛乳、ヨーグルト、チーズ(バターはカゼインの影響は少ないためOK)


shikoku88 at 20:19コメント(0) 

2020年10月07日

ウツは「脳の栄養不足」が原因だった




うつ病患者が増え続けている(下図)。実は2000年までは横ばいだったのだが、それ以降急増している。21世紀になって急に社会環境や人の体質が変わったわけではなく、これは、「副作用が少ない薬の登場で、内科や心療内科で薬を処方しやすくなった」かららしい。診断名がつけやすくなったのだ。

それはさておき、それ以降も、患者数がじわじわと増えている。

なぜ、薬を飲んでもよくならないのか?
なぜ、カウンセリングを受けても変わらないのか?
なぜ、休んでもまたぶりかえすのか?

実は、「うつ改善のヒントは食べ物にある!」というのが本書で、オリジナルは2008年に出た。当時は、うつ症状などの精神症状改善に食事やサプリメントを用いることはなく、「特に精神科医や心療内科医からは無視され、ときに誹謗中傷の的にされた」そうだ(おわりに)。

それから10年経ち、薬物療法やカウンセリングで治らなかった患者が、食事療法で改善する例が続出し、本書が推奨する「オーソモレキュラー療法」は認知を得たという。

うつ症状を起こす人の多くが「低血糖症」だという。「低血糖症の場合、食後に急激に血糖値が上がる(血糖値スパイク)→それを下げようとインスリンが大量分泌される→血糖値が下がりすぎる→血糖値を上げるようにホルモン放出→自律神経に乱れ→心身不調」というメカニズムだ。

従って、この治療のためには、炭水化物など糖分を控えて、脳内神経伝達物質のおもな材料である「たんぱく質」と、その合成を助けるビタミンB6を取るとよいという。炭水化物ダイエットとほぼ同じ考えだ。

これは、うどん大好きな香川県民にとってはキビシイ。あるいは粉もの好きの大阪人、広島県人はどうなのか?糖分摂取量とうつ病患者数の相関関係を調べた研究はあるのだろうか。

コロナGDP各国


































はじめに:オーソモレキュラー療法
うつの95%には食べ物、すなわち「栄養」と「代謝」がかかわっている。

14:「うつ」が増え続けている背景
うつ病・躁鬱病患者数(医療機関で診断や治療を受けた人の数)
1996 433千人
1999 441千人
2002 711千人
2005 924千人
2008 1041千人
*副作用が少ない薬の登場で、内科や心療内科で薬を処方しやすくなった→診断名がつけやすくなった。

21:なぜ、カウンセリングを受けてもよくならないのか?
カウンセリングは、患者さんの認知機能が上がり、優秀なカウンセラーが行うことで、はじめて効果ができる。うつ症状が継続し、薬剤によってさらに認知機能が下がっている状態では、カウンセリングの意味がない。

36:脳内神経伝達物質のおもな材料はたんぱく質
神経伝達物質の合成がうまくいかない原因のひとつ=B6不足

97:砂糖依存
甘味はコカインなどの麻薬よりも依存性が強い(動物実験)。
キャンディーやチョコレートよりも、小麦を使った甘いものの方が、糖質が多い。

106:うつの陰に低血糖症あり
低血糖症の場合、食後に急激に血糖値が上がる→それを下げようとインスリンが大量分泌される→血糖値が下がりすぎる→血糖値を上げるようにホルモン放出→自律神経に乱れ→心身不調

130:自覚症状がない「低血糖症」
現代人のほとんどは、エネルギー源を糖に依存→脳や体は血糖の上がり下がりに左右される
本来人間は、脂質をもとに生成されるケトン体や脂肪酸をエネルギー源にするのが理想。
「ケトンジェニック」糖質を制限して、脂質をエネルギー源にする。

136:「うつ」は糖尿病の第4の合併症
糖尿病患者がうつやうつ症状を合併する率は約2倍。
うつ病性障害を有する患者のうち、糖尿病を発症するリスクは65%。

170:パーキンソン病や認知症
DHEAの数値が高い高齢者は、認知症とは無縁。


shikoku88 at 19:10コメント(0) 

2019年04月14日

名古屋めし

IMG_3247






















































名古屋の食事といえば・・・私が思い浮かぶのは、味噌カツ、味噌煮込みうどん、ひつまぶし。前回来たのは4年前で、その時はひつまぶしだけ食べて、伊勢に移動。今回は、味噌カツに挑戦しようと思い、地元の友達に頼んで、「矢場とん」本店に連れて行ってもらった。

昨日、駅を歩いていたら、「名古屋めし」カフェとある。「名古屋めし」とは何かと思ったら、あれこれメニューがある。「名古屋めし」というものがあるのではなく、名古屋独特の食文化の総称のようだ。

人によって定義は少々違うが、大体の定番はこういうところらしい。

不動のTOP3
・味噌カツ
・味噌煮込みうどん
・ひつまぶし

その他、常連。
・手羽先
・きしめん
・あんかけスパ
・鉄板スパ
・小倉トースト

こうしてみると、「名古屋めし」の特徴は、「甘くて、濃い」ということ。甘いだけなら香川もそうだが、濃くはない。甘いうえに濃ければ、高カロリー間違いなし。一般に、肉体労働が多い田舎はこうした傾向があり、肉体労働者の少ない都会は淡白な味を好む。

名古屋は、堅実で勤勉な土地柄なので、よく働いた結果がこの食文化なのかもしれない。

shikoku88 at 21:33コメント(0) 

2019年04月07日

今後ワインは外で飲みません(多分)

昨年2月、高田馬場で後輩たちの卒業祝いで気持ちよく飲酒。帰宅してすぐに風呂に入って、上がろうとしたとき気を失って転倒〜額を切ってしまった

調べてみると、飲酒と入浴によるめまいだ。飲酒も入浴どちらも血管を膨張させて、血圧を下げる。これが「気持ちいい」と感じさせるわけだが、立ち上がったとき血圧調整がうまくいかず、立ちくらみが起こるわけだ。年齢を経ると血圧調整能力が下がり、発生しやすくなるということ。湯船のなかで気を失うと、そのまま溺死に繋がる。年間に1万人以上これで亡くなっているというから、交通事故よりよほど多い。

それ以来、飲酒後の入浴には気を付けているのだが、先日、電車の中で倒れる事態に。この日の飲酒は、ビール中瓶1+スパークリングワイン1+白ワイン1+赤ワイン1で、最後に酔い覚ましにグレープフルーツジュースを頼んだ。

店を出た時は普通だったのだが、地下鉄に乗ってからどうも調子が悪い。視界から色が消え、視野が狭まり、白黒の世界に。それも「ドット抜け」。座りたいのだが、あいにく、金曜日の夜で満席だ。壁に寄りかかってうつらうつらしていた。

そして、気がついたら、倒れていた。床に這いつくばり、頭がボーっとしている。前の席の人から、「座りますか?」と声をかけられ、なんとか現在位置を確認。幸い、次が目的駅だった。座れていたら、乗り過ごすパターンだ。

認めたくないが、やはり、飲酒の適量が落ちているようだ。車内で倒れたのは初めてだが、気持ちが悪くなったり、座って寝過ごしたことは何度か。不思議なことに、いずれもワインを複数杯飲んだ時。

どうやら、ワインとは相性が良くないようなので、今後外で飲むのは控えます(と宣言)。

shikoku88 at 18:34コメント(0) 

2019年02月05日

3週間で「集中力」「記憶力」を取り戻す



血糖値を大幅に上昇させる「高GI食品」と言われれば、うどん県人にとって気になるのは毎日のように食べるうどん。しかも、多くの人が付け合わせるのは天ぷらで、野菜はネギ位。実際、そのせいで、香川県は糖尿病罹患率で常に上位を占めてきた。

炭水化物の重ね食べ、過剰摂取、早食い−。こうした食事の仕方は子供にも引き継がれており、香川県は小学生を対象に血液検査で糖尿病などの傾向を調査する「小児生活習慣病予防健診」を始めた。今年の結果によると、「将来糖尿病の発症リスクが高い子供」は男子14・5%、女子13・6%。「肥満傾向」は男子10・1%、女子8・4%。生活習慣との関連では、腹いっぱい食べる、早く食べると答えた児童に肥満傾向や脂質異常、肝機能の異状が多い傾向がみられた

というから、やはり、これはマズイ。もともと、精米した白米や精麦した小麦は贅沢品。庶民が毎日食べられるものではなかった。うどん県と言われる香川でも、毎日食べられるようになったのは、戦後安い小麦が海外から入るようになってから。現在の「讃岐うどん」の原料は85%が海外産だ。その大半を占めるのがオーストラリアで讃岐うどん専用に開発されたASWで、現在の讃岐うどんの白さはASW由来。元来、讃岐産の小麦は黄色みが入ったうすいグレー。

食べ方を見直さなければ。

*思考力の低下や気分の落ち込みは、活力や集中力を保つのに欠かせない「脳内化学物質」が十分に作れないせい!ライフスタイルを改善する必要。

’召侶鮃状態を促す食生活
・血糖値を大幅に上昇させる「高GI食品」(精白パン、白米、パスタ)制限
血糖→糖尿病→アルツハイマー
・葉酸などのVitamin B群
・ヘルシーな脂肪食品(オリーブオイルなど)
・発酵させた大豆(みそ、納豆など)
・果物や野菜は一日に7品食べる

⊃事以外のライフスタイル
・定期的な運動
抗うつ剤より定期的な運動の方が、気分や認知機能の改善に効果がある。
・十分な睡眠で、脳のニューロンの間のすきまにあるアルツハイマーの原因となる老廃物を洗い流す
・マルチタスクは仕事の効率を低下させる。今行っていることに集中する。
マルチタスクと呼ばれているものは、実際は、ごく短時間のシングルタスクの繰り返し。
・ソーシャルメディアは感情をネガティブにする
FBを見た後はネガティブな感情が増える。「ねたみ」「孤独感」
・祈る、瞑想する、唱えるといったスピリチュアルな行為は、不安を和らげる。


shikoku88 at 21:08コメント(0) 

2018年10月07日

モダンシティー大阪の本格欧風料理店「ガスビル食堂」

ムサカ








































大阪の中流家庭が特別な日に行くところが、長年に渡って大阪ガス本社ビルにある「ガスビル食堂」ということ。

「大正から昭和初期にかけては、大阪にモダンな都市文化が花開いた時代でした。ガスビル食堂は、大阪における最も近代的で美しいビルディングと称されたガスビル八階に、昭和8年(1933年)3月の竣工と同時に誕生しました。本格欧風料理を提供し、モダンシティー大阪を代表するレストランとして市民の人気を集めました 」

昭和8年完成のビルは冷暖房完備だったというから、スゴイ。2003年竣工70周年の時に、登録有形文化財に。現在は、外壁の修復中で、「都市建築の美の極致」とまで言われたビル外観が今回は見れなかったのが残念。

70年の歴史を誇る食堂の伝統メニューの一つが「ムーサカ」。ギリシャの家庭料理に由来し、三代目料理長が羊肉を牛肉に代え、創業当時からの伝統のデミグラソースとマッシュポテトでアレンジしたという(写真)。


shikoku88 at 18:00コメント(0) 

2018年09月25日

宇宙からやってきた植物⁉




食料として世界中で利用されるばかりでなく、工業用アルコールや段ボールなどの資材、石油代替のバイオエタノールなど、現代社会はトウモロコシなしでは回らないほどだ。その結果、世界で最も多く作られている農作物は、コムギでもなく、イネでもなく、トウモロコシだということ。

そのトウモロコシは「宇宙からやってきた」という話が出るほど、不思議な植物らしい。

「トウモロコシには明確な祖先種である野生植物がない。たとえば私たちが食べるイネには、祖先となった野生のイネがある。また、コムギは直接の祖先があったわけではないが、コムギの元となったとされるタルホコムギやエンマコムギという植物が明らかになっている。ところがトウモロコシは、どのようにして生まれたのか、まったく謎に満ちている。(中略)

植物は種子を散布するために、さまざまな工夫を凝らしている。たとえばタンポポは綿毛で種子を飛ばすし、オナモミは人の衣服に種子をくっつける。ところが、トウモロコシは、散布しなければならない種子を皮で包んでいるのだ。(中略)つまり、トウモロコシは人間の助けなしに育つことができないのだ。まるで家畜のような植物だ」(p190)

初めから作物として食べられるために作られたかのような植物なので、宇宙人が古代人の食料としてトウモロコシを授けたのではないかと噂されている。

shikoku88 at 18:25コメント(0) 

2018年09月24日

ダイズ:戦国時代の軍事食から新大陸へ



世界の四大文明には、それぞれ主要な作物がある。

「メソポタミア文明やエジプト文明には、オオムギやコムギなどの麦類がある。また、インダス文明にはイネがあり、そして中国文明にはダイズがある。アメリカ大陸に目を向けると、アステカ文明やマヤ文明のあった中米はトウモロコシの起源地であり、インカ文明のあった南米アンデスはジャガイモの起源地である」

これらの古代文明の中で、現在でも同じ位置に残るのは中国文明のみ。これには中国文明を支えたイネとダイズが大きく影響していると考えられる。通常、農耕を行い農作物を収穫すると、作物が吸収した土中の養分は外へ持ち出されるので、作物を栽培し続けると土地がやせる。また、特定の作物を連続して栽培すると、ミネラルのバランスが崩れ、食物が出す有害物質によって、植物が育ちにくくなる(連作障害)。こうして、早くから農耕が始まった地域では砂漠化して、文明も滅んでいく。

しかし、イネは水田で栽培すれば、山の上流から流れてきた水によって栄養分が補給される。また、余分なミネラルや有害物質は、水によって洗い流される。そのため、連作障害を起こさず、同じ田んぼで毎年、稲作を行うことができるのだ。

さらに、マメ科の植物はバクテリアとの共生によって、空気中の窒素を取り込める。そのため、窒素分のないやせた土地でも栽培可能で、他の作物を栽培した後の畑で栽培すれば、地力を回復させ、やせた土地を豊かにすることもできる。

162:中国4千年の文明を支えた植物
中国では、北部の黄河流域にはダイズやアワを中心とした畑作が発達し、南部の長江流域にはイネを中心とした水田作が発達した。

166:コメとダイズは名コンビ
さまざまな栄養素を持ち完全栄養食と言われるコメであるが、唯一、アミノ酸のリジンが少ない。このリジンを豊富に含んでいるのがダイズ。

167:戦国時代の戦陣食
発酵食品である味噌は、保存が利く。しかも、干したり焼いたりして味噌玉にすれば、簡単に携帯できる。そして、お湯に溶けば簡単に味噌汁にすることができるし、野草を摘んで具にすれば、栄養を補給することができる。


shikoku88 at 18:30コメント(0) 

2018年09月23日

サトウキビ:人類を惑わした甘美なる味



プランテーション農業の始まりは、サトウキビであったらしい。もともと自然豊かで食べ物に困らない西インド諸島の先住民は労働らしい労働をせずに暮らしていたはずだ。ところが、コロンブスによって発見されたばかりに、コロンブスによって持ち込まれたサトウキビ畑で強制労働させられるようになる。

スペイン人がもたらした耐性のない伝染病の流行と重労働で先住民は死に絶えてしまい、その労働力を補ったのがアフリカから連れてこられた黒人奴隷。もともとの住民は黒人ではなく、アメリカ大陸同様、インディオが住んでいたのだ。

154:プランテーション農業の始まり
サトウキビは食料ではない。嗜好品である。サトウキビがなければ飢え死にしてしまうということはないし、砂糖ばかりがたくさんあっても人は生きていくことはできない。しかし、富を求めるスペインの支配によって、豊かな島の森は焼き払われて広大なサトウキビ畑となった。

155:アメリカ大陸と暗黒の歴史
奴隷貿易は、サトウキビ栽培だけでなく、綿花栽培など工業原料となる作物生産にも応用されていった。こうして1451年から奴隷制が廃止される1865年までの間に、940万人にものぼるアフリカの人々が奴隷としてアメリカ大陸に運び込まれたのである。

157:それは一杯の紅茶から始まった
世界の三大飲料とされる紅茶、コーヒー、ココアはすべてヨーロッパの人々にとって異国の飲み物。これらの飲み物は、中枢神経を興奮させる覚醒作用を持つカフェインを含んでいる。そのために強壮剤として人気があった。しかし、カフェインは苦み物質でもあり、これらの飲み物はすべて苦い。ところが、砂糖の存在がこれらの飲み物を魅惑の味に変えていくのだ。


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2018年09月22日

チャ:アヘン戦争とカフェインの魔力




1688-89年の名誉革命で王妃メアリに迎えられたメアリ(追放されたジェームズ2世の娘)は、オランダに伝えられていた茶をイギリスに持ち込む。当初、イギリスの上流階級の女性たちの間に広まった茶は、産業革命が起こると工場労働者にも広まっていく。

庶民まで飲むようになった茶は引き続き中国(清朝)から輸入されている。ところが、清国から輸入するものはない。イギリスの貿易赤字は拡大し、大量の銀が流出していく。

そこでイギリスが企てたのが植民地のインドを入れた三角貿易。インド綿の紡績で始まった産業革命は、インドの伝統的綿織物業を壊滅させる。そのインドで麻薬原料となるケシを栽培し、ケシから作り出したアヘンを清国商人に売った。

1840年に起こったアヘン戦争の結末はご存知の通り。アヘン戦争がなければ、明治維新は起こらなかった可能性があるし、イギリスで名誉革命がなければ、それまで通りイギリス人はコーヒーを飲んでいてアヘン戦争は起こらなかった可能性が高い。

136:ヨーロッパで最初にチャを飲んだのはオランダ人
やがてイギリスで名誉革命が起こり、国王が追放されると、オランダからウィリアムが王妃メアリとともに国王として迎えられた。そして、メアリはオランダからチャをイギリスに伝え、東洋では身分の高い者のたしなみらしいチャは、イギリスの上流階級の女性たちの間で広まっていく。

138:産業革命を支えたチャ
イギリスでは、赤痢菌など水が媒介する病気の心配があった。そのため、農業労働者たちは、水の代わりにビールなどのアルコール類を飲んでいた。しかし、休みなく働く機械とともに工場で働く労働者たちは、ほろ酔いで働くわけにはいかない。チャは抗菌成分を含むので、十分に沸騰していない水で淹れても病気の蔓延を防ぐことができる。しかも眠気を覚まし、頭をすっきりさせてくれる。そのため、労働効率を上げるのに最適な飲み物だったのである。

144:インド紅茶の誕生
チャという植物には二種類ある。一つが中国で栽培された「中国種」と呼ばれるもの。中国種は、寒冷地で生育できるように適応して、葉が小さく変化している。(中略)一方、インドで発見されたチャが、現在「アッサム種」と呼ばれるもの。アッサム種はインドのような暑い気候に適応して、葉が大きい。(中略)アッサム種は、熱帯で病害虫が多いので、抗菌作用のあるカフェインの含有量が多い。緑茶はアミノ酸の旨味を愉しむ飲み物であるが、紅茶はカフェインの苦みを楽しむものである。そのため、アッサム種は紅茶に向いている。

146:カフェインの魔力
カフェインは、アルカロイドという毒性物質の一種で、もともとは植物が昆虫や動物の食害を防ぐための忌避物質であると考えらえている。このカフェインの化学構造は、ニコチンやモルヒネとよく似ていて、同じように神経を興奮させる作用がある。


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2018年09月21日

イネ:稲作文化が「日本」を作った




「戦国時代の日本では、同じ島国のイギリスと比べて、すでに6倍もの人口を擁していた」という。その人口を支えたのが、「田んぼ」というシステムと、「イネ」という作物だった。

人口100万人、世界最大の都市だった江戸を可能にしたのはずば抜けて生産効率の高いネだったのだ。ヨーロッパでは、三圃式農業という、ジャガイモと豆類など夏作物を作る畑と、コムギを栽培する畑と、作物を作らずに畑を休ませるところの三つに分けてローテーションして土地を利用したということは高校の世界史で習った。

「これに対して日本の田んぼは毎年、イネを育てることができる。一般に作物は連作することができない。イネのように毎年、栽培することができるというのは、実にすごいことなのである」

37:呉越の戦いが日本の稲作文化を作った
この戦いに敗れた越の国の人々は、山岳地帯へと落ち延びた。そして、険しい山の中に棚田を拓いた。一方、海を渡った難民たちは日本列島に漂着した。当時の日本はすでにイネは伝わっていたと考えられているが、越の人々が伝えた稲作技術は、日本に稲作が広がる要因の一つになった。

39:イネを受け入れなかった東日本
縄文時代中期の100㎢当たりの人口密度は、西日本ではわずか10人未満であったのに対して、東日本では、その数十倍の100-300人であったと推計されている。豊かな落葉樹林が広がる東日本は、大勢の人口を養うのに十分な食料があったのである。人口を支える食料が不足する西日本では稲作は急速に広まったが、十分な食料がある地域では、労働を伴う農業は受け入れられなかった。

43:イネは極めて生産効率が良い作物
日本列島は東南アジアから広まったイネの栽培の北限にあたる。イネはムギなどの他の作物に比べて極めて生産性の高い作物である。イネは一粒の種もみから700-1000粒のコメがとれる。これは他の作物と比べて驚異的な生産力である。
15世紀のヨーロッパでは、小麦の種子をまいた量に対して、収穫できた量はわずか3-5倍だった。これに対して17世紀の江戸時代の日本では、種子の量に対して20-30倍もの収量があり、イネは極めて生産効率が良い作物だった。

44:コメは栄養価に優れている
炭水化物だけでなく、良質のタンパク質を多く含む。さらにはミネラルやビタミンCも豊富で栄養バランスも優れている。そのため、とにかくコメさえ食べていればよかった。唯一足りない栄養素は、アミノ酸のリジンである。ところが、そのリジンを豊富に含んでいるのがダイズである。そのため、コメとダイズを組み合わせることで完全栄養食になる。ご飯と味噌汁という日本食の組み合わせは、栄養学的にも理にかなったものなのだ。

46:田んぼを作る
途方もない労力と時間を掛けて、人々は川の氾濫原を田んぼに変えていった。日本の国土にとって、田んぼを作る歴史は、激しい水の流れをコントロールすることに他ならなかった。


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2018年09月20日

ジャガイモ:大国アメリカを作った「悪魔の植物」



映画「オデッセイ」(原題:The Martian)で、火星に取り残された宇宙飛行士(マット・デイモン)が最初にしなければならなかったのは水と食料の確保。燃料を室内で燃やし水を生成。排泄物を有機肥料にして栽培したのはジャガイモだった。火星での食料生産は予定に入っていなかったので、持ち込まれた食料の中で増やすことができたのは、芋から増やすことのできるジャガイモだけだったのだ。

この南米アンデスの痩せ地からヨーロッパにもたらされた野菜は世界史を変えた。それまで冬の間家畜を飼う飼料のなかったヨーロッパでは穀物を食べており、温暖なアジアほど人口は増えなかった。ジャガイモがもたらされたことで豚の飼育が盛んになり、通年豚肉の供給が可能になった。

また、ビタミンCが豊富で保存のきくジャガイモは遠洋航海を可能にした。それまではビタミンC不足による壊血病で船員の大半が死亡するのが普通だったのが、ジャガイモによって安定した長い航海ができるようになったのだ。ジャガイモがなければ、大航海時代は訪れず、ヨーロッパ諸国による世界の植民地化も無かったことになる。

89:ジャガイモはナス科の植物だが、ナス科の植物には有毒なものが多い。魔女が使ったとされる有毒植物のヒヨスやヘラドンナ、マンドレイクはナス科の植物であるし、日本では幻覚で鬼を見ることから鬼見草の別名を持つハシリドコロもナス科である。また、ナス科のチョウセンアサガオやホオズキも有毒植物である。そして、ジャガイモも葉が毒を持つのである。

90:ジャガイモは「聖書に書かれていない植物」であった。聖書では、神は種子で増える植物を創ったとされている。ところが、ジャガイモは種子ではなく芋で増える。ヨーロッパの人々にとって、芋で増えるジャガイモは奇異な植物だったのだろう。西洋では、聖書に書かれていない植物は悪魔のものである。そして、ジャガイモは「悪魔の植物」というレッテルを貼られてしまったのである。

93:ジャーマンポテトの登場
牛はジャガイモを食べることができないが、ジャガイモを餌として食べる家畜がいる。それが豚である。こうして豚のベーコンやハム、ソーセージもまた、ジャガイモとともにドイツの食卓を彩っていくのである。そしてジャガイモは、それまで穀物を食べていたヨーロッパに肉食を広めていく要因にもなっていくのである。

98:大航海時代の必需品
ヴァスコ・ダ・ガマの船隊は、180人の船員のうち、100人が壊血病で死亡。海上生活では野菜を食べることができないため、壊血病はビタミンC不足が原因。ジャガイモが航海食として用いられるようになると壊血病は減少。ジャガイモはビタミンCを豊富に含ん貯め、ジャガイモを食べると壊血病を防ぐことができる。しかもジャガイモは貯蔵性に優れている。ジャガイモによって安定した長い航海が可能になった。

106:カレーライスの誕生
イギリスではスパイスを組み合わせてカレー粉を開発。カレー粉の発明によって、カレーは簡易にできる料理になり、イギリスの船乗りたちは、日持ちのしない牛乳の代わりに保存性の高いカレーパウダーを利用してシチューを作った。このシチューに、航海食として欠かせなかったジャガイモが入れられた。こうして、カレーはイギリス海軍の軍隊食となった。

108:日本海軍の悩み
軍医の高木兼寛は、原因は不明であるものの西洋式の食事をとる上官は脚気が少ないことに気が付く。西洋料理では、ビタミンB1を含む肉類やジャガイモを食べるため、脚気は問題にならなかった。1902年に日英同盟が結ばれると、イギリス海軍を見習って日本の軍隊でもカレーライスが食べられるようになった。その後、日露戦争が終わると、兵役を終えた兵士たちによってカレーライスは家庭へと普及していった。


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2018年09月19日

人類の歴史は、植物の歴史



先月読んだ『炭素文明論』にも重なる部分があるが、こちらは植物学者が書いた、植物の歴史から見た人類の歴史。

「人類は植物を栽培することによって、農耕をはじめ、その技術は文明を生みだした。植物は富を生みだし、人々は富を生みだす植物に翻弄された。人口が増えれば、大量の作物が必要となる。作物の栽培は、食料と富を生み出し、やがては国を生み出し、そこから大国を作りだした。富を奪い合って人々は争い合い、植物は戦争の引き金にもなった」(はじめに)

そう考えれば、人類は、「自分たちの欲望に任せて、植物を思うがままに利用してきた」(あとがき)と考えられるが、著者は「そうは思わない」という。植物にとって最も重要なことは、「種子を作り、種子を広げること」。植物は種子を残し、分布を広げるために生きている。

そう考えれば、人類が世界中で植物を栽培しているのは、「鳥たちが甘い果実に狂喜し、アリがエライオソームのついた重たい種子を運ばされているのと、何か違いがあるだろうか」ということになる。「一面に広がる田畑で、栽培作物は、人間たちに世話をされて、何不自由なく育っている。そして人間は、せっせと種をまき、水や肥料をやって植物の世話をさせられているのである」

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2018年09月13日

Slurp! ホットな国民食からクールな世界食へ



「蕎麦をバカにしてはいけない」は、現在に続く製麺所タイプ讃岐うどんブームを作った「麺通団」の会則の一つだが、バカにするどころか、うどん以上に日本各地で愛され、世界に広がっているのがラーメン。何しろ、ほとんどの讃岐うどん屋が客単価を500円以上に上げるのに苦労している時に(香川なら300円だ)、ラーメンなら客は喜んで千円払う。NYやロンドン、パリなどでは数千円するラーメンも珍しくない。

ケンブリッジ大学で日本史を教えるアメリカ人Barak Kushnerによって書かれた本書が英文で英米で出版されたのは既に6年前の2012年。英米でのラーメンブームと共にベストセラーとなり、逆上陸する形で先ごろ日本語版が出た。『ラーメンの歴史学』というタイトル通り、これはラーメンのガイドブックではない。「私はラーメン通とはほど遠く、ラーメンを日本の近現代史を研究する際の新しい手段だとみなす一歴史学者」だという(日本語版への序)。そして、それに成功していると思う。

本書の「ラーメンの歴史」を簡単に要約するとすれば、中東の古代文明で生まれた小麦を原料とする粉文明がシルクロードを経て中国に伝わり、餅(ピン)ができる。これが仏教と共に、日本に伝わる。中世までに切り麺が出来、饂飩が広まる。米や麦栽培が難しい山間地では蕎麦ができ、江戸で評判になった。

こうして、江戸時代までには麺文化が形成され、明治時代になって混乱する中国から華僑や留学生が大量に来日したことでラーメンが生まれる。同時多発的であったようで、麺を濃厚な肉のスープに入れて食べるという「簡易中華料理」のアイデアを思いついたのは横浜の華僑で、長崎では「ちゃんぽん」が誕生した。

これをラーメンと呼んだのは、大正時代、北海道帝国大学近くにできた竹家食堂が初めてと言われる。中国東北部出身でシベリアを経て札幌に流れ着いた料理人「王文彩」は、料理ができると中国語で「好了(ハオラー)!」(一丁あがり)と叫んだ。特に強調される「ラー」の音に、麺を付け、当初は中国人留学生の提案で、引いて伸ばす麺を意味する中国語の「拉麺」という漢字を当てていたが、客なじまなかったため、片仮名に書き換え「ラーメン」としたという。

ラーメンの長い歴史が示すのは、日本料理が永遠でも不変でもないこと。「日本の食は、東アジアの隣国との交流を通して著しく向上」し、日本料理には唯一無二の伝統があるというわけではないのだ。

77:武士の台頭と食生活の変化
室町時代には「切り麺」と呼ばれる新しい商品が生まれ、麺市場が拡大した。(中略)人々の食生活が大きく変化した日本の中世には、麺類の前身としての餅(ピン)は、醤油や味噌と共に、すでに中国から海を渡って日本に到来していた。芽生えたばかりの日本の麺文化に昆布や鰹節から取ったうま味が加わったことで、16世紀には将来のラーメン人気の基礎はほぼできあがったといえる。

145:軍隊の食事をめぐる論争
人々はアワや麦などの雑穀にほんの少し米を混ぜたものを主食にしていた。(中略)日本人の麺好きはすでに社会に根づいていたとはいえ、19世紀末、麺を濃厚な肉のスープに入れて食べるというアイデアを思いついたのは横浜の華僑たちだった。

155:長崎ちゃんぽんと南京そば
明治初期、日本各地で時を同じくして新しいタイプの汁麺が登場してきた。その背景には、日本の近代化の秘訣を学ぼうという意欲に燃えた中国人留学生が、続々と来日するようになったことがある。日本にやって来た中国からの移住者や外国の貿易商が一様に失望したのは、国際舞台で存在感を増している国にしてはあまりにも貧弱なその食事内容だった。

205:ラーメンの誕生
1922(大正11)年、札幌にある竹家食堂ではメニューに中華料理をいくつか加えた。店は数年前に創立されたばかりの北海道帝国大学の近くにあり、学生のなかには中国からの留学生が180人もいて、よく出入りしていた。ある日、シベリアで料理人をしていたという中国人、王文彩が店にやってきた。ほどなく店主の大久晶治は王を雇い、「中華料理」を売り物にする店へと転向した。(中略)王はいろいろな種類の肉入り麺を作ったが、とくに人気があったのは「支那ソバ」だった。その麺は日本人になじみのある麺とは似て非なるもので(中略)、シコシコと弾力がある。それを鶏ガラ、豚肉の切れ端、野菜クズなどで取った塩味のスープに入れて供した。これらの麺はたちまち大当たりした。

345:日本食のイメージはヘルシー
一般的に、和食は今でも相対的に淡白で、ほとんどの国の料理と比べて香辛料の使用量も少ない。日本料理では一つの料理に使う香辛料はおよそ4種類で、これはイギリス料理と同じである(タイ料理やインド料理は8種類を使う)。

351:ラーメンの歴史が物語るもの
日本は食べ物の足りない社会から、十分な食べ物に恵まれた社会へ、そして今や食べ物を捨てる社会へと変わった。歴史を振り返れば、国民のほとんどが栄養失調だったといえる。栄養バランスのとれた食事ができたのは、ほんのわずかな金持ちだけだった。日本と中国(中略)との相互作用の産物であるラーメンの長い歴史は、日本料理が永遠でも不変でもないことを物語っている。


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2018年08月17日

糖質からの独立戦争



帯には「糖質からの独立戦争」との大業な文字。炭水化物摂取を減らすのが大流行だが、ダイエット以外に目的はあるのかしばらく「赤身肉は健康に悪い」として、肉食を減らす傾向もあったが、現在は肉食ブーム。

日本人は12千年前の採取時代にドングリを煮て食べることを覚え、それからデンプン=炭水化物の摂取が始まったという。13千年前ごろから寒冷期が始まり、獲物が獲りにくくなったからだ。さらに、大陸から稲作が伝わり、安定した食物確保で日本の人口は拡大期を迎える。それまでは気候次第で増えたり減ったりであった。

何の作物を栽培するにせよ水は大量に必要で、例えば、茶碗一杯の米を作るためには300-400kgの水が要る。100gのステーキを作るためには、2.5kgの穀物と、2tの水を消費する。一つだけ明らかなのは、筆者の推奨通りに、皆が穀物を食べず、肉食になれば、地球は現在の人口は維持できない。肉を食べられるのは富裕層だけになってしまう。

狩猟だけで生活していた縄文時代初期の推定人口は1-2万人。日本全体の人口である。それが、ドングリを食べ始めて10倍くらいに増える。稲作が始まった弥生時代には人口が50万人を突破したと推定されている。


労働時間



































・糖質制限で体調がよくなる
短期間で体重が減り、不眠症やうつ症状、高血圧、高脂血症が治る。

・血糖を上げるものは摂取しない
血糖値を上げる作用の強い炭水化物。

・血糖値が上昇するとドーパミンが分泌され快感
コカインに対する脳の反応と同じであり、糖質依存に陥る。


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2018年08月14日

「天才物質」は存在するか ― 尿酸




史上最初の有名な痛風患者は、かのアレクサンダー大王らしい。他にも、モンゴル帝国を築いたフビライ・ハーンや、清教徒革命のオリヴァー・クロムウェルなど、痛風に悩んだ英雄たちは多い。

それだけなら、成功したゆえの美食の影響で済まされそうだが、同じ美食をしていても尿酸値が上がらない人もいるし、粗食でも痛風になる人もいて、痛風の発症には遺伝的要素も大きく影響することが現在では知られている。

しかし、歴史上の英雄以外にも、ダンテ、ゲーテ、スタンダール、モーパッサン、ミルトンなどの文学者、ベーコン、ニュートン、ダーウィンなどの学者、さらには、ルターといった宗教家、フランクリン、チャーチルなどの政治家までが痛風で悩まされていたとなると、痛風と「天才物質」の関係を疑ってみたくなるというもの。

実は、「痛風を発症しやすい性格」というのがあるらしい。それは、「せっかちで時間に厳しく、精力的に仕事に打ち込む。意志が強く、最後までやり抜かねば気が済まない。競争心が旺盛で攻撃的、怒りっぽい」というもので、ミケランジェロなどはそうした気難しさで有名だったそうだ。

仕事に対するこうした態度は成功の要因でもある。その後の研究で、社会的成功者には尿酸値が高い人が多いことが分かっているそうだ。これが、遺伝のためなのか、性格のためなのか、成功した上の美食のためなのか、おそらくは、それらを組み合わせたところに答えがあるようだ。


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2018年08月13日

歴史を興奮させた物質 ― カフェイン



どこかで、「人間とは、味付けした水を好む動物」というのを読んだことがある。確かに、人間以外で、「味付けした水」を飲む動物を知らない。

特に日本では、メーカーが毎週のように新製品をだして、激しい競争を繰り広げている。しかし、大別すれば、.魁璽辧七蓮↓茶系、コーラ系、て酸系、ゥ献紂璽昂呂吠かれるという。茶は紀元前から中国で薬草として知られ、現在でも水に次いで世界で二番に飲まれている。コーヒーの普及ははるかに遅く、記録が残るのは15世紀になってからだという。そして、コカ・コーラが誕生したのは1886年と比較的新しい。

この三つの定番飲料の共通点は、いずれもカフェインがたっぷり入っていること。コーラもカフェイン濃度は紅茶や緑茶並みなのだそうだ。

カフェインは集中力を高め、清涼感がある一方、依存性もある。中毒者はカフェインが切れると頭痛・疲労感・集中力低下などの症状が現れる。面白いのは、影響を受けるのは人間だけでなく、たとえばクモに投与すると、酔っ払ったようになってきちんとした巣を張れなくなるという。カフェインは、立派な「ドラッグ」なのだ。

122:定番飲料の共通点
.魁璽辧次↓茶、コーラ
いずれもカフェインたっぷり。コーラもカフェイン濃度は紅茶や緑茶並み。

124:茶の普及を促進したのは仏教
精神を研ぎ澄まし、集中力を高める茶の作用は、瞑想修行に有効と考えられ、積極的に服用された。仏教の広がった範囲は、茶の愛飲されていた東アジア地域に重なっている。

130:当初は媚薬としてもてはやされたチョコレート
カカオは、カフェインとわずかに構造が異なるだけの化合物テオブロミンを多く含む。その作用はカフェインに比べてやや弱いが、一緒に摂ると効果を相乗的に強める。またテオブロミンにはホスホジェステラーゼ阻害作用、すなわちかのバイアグラと類似の作用が極めて弱いながらある。さらにカカオはフェネチルアミンという成分を含み、これは脳内で快楽を司るドーパミンの量を増やす。チョコレートは、これに加えて砂糖・脂肪がたっぷり入った快楽物質の塊。


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2018年08月10日

世界を二分した「うま味」論争 ― グルタミン酸



私たち以上の世代だと、子供の頃、「味の素で頭が良くなる」という話を聞いたことがあると思う。うどん屋には味の素が必ず置いてあり、それを振りかけて食べる人が多かった。

この「頭が良くなる」というのは、まんざら根拠のない話ではないらしい。味の素=グルタミン酸は人が生きていくのに必要な必須アミノ酸の一つで、重要な神経伝達物質なのだ。この化合物なくしては人間は記憶も学習もできない。

味の素は1960年代に、グルタミン酸の一部を石油からの化学合成で供給したことで非難された。天然由来ならいいが、石油から化学合成するのは許せないというわけである。科学的に見れば、「原料が昆布であろうが小麦粉であろうが石油であろうが、出来上がったものは同じグルタミン酸という分子であり、そこに差異は何もない。原子に個性はない以上つながり方さえ同じなら同じ分子」なのだが、風評被害のため、味の素社は十数年で合成法から撤退し、今ではサトウキビからの発酵法による生産に切り替わっている。

著者は、グルタミン酸の味が大好きなのに、グルタミン酸の使用を嫌う日本人の矛盾を、「便利すぎるから」ではないかという。「自分を感動させ、惹きつける味わいは、厳選された材料と磨き抜かれた調理技術によって生み出されているべきだ」と思ってしまう。「それが実際には安価な調味料一振りで簡単に実現されているとなると、何やら騙されたようで腹立たしくなり、調味料への攻撃につながってしまう」と考察している。

87:タンパク質
数百個のアミノ酸が数珠つなぎになったもの。わずか20種類でしかないアミノ酸の縦列組み合わせだけで、あれほどまでに複雑多彩な機能が実現されているというのは、自然の大きな驚異グルタミン酸は、この生命の基本単位である、20種のアミノ酸の一つ。

91:幕府を倒した昆布
薩摩藩は、奄美や琉球で製造した砂糖を大坂の相場で販売し、その金で買い込んだ蝦夷地の昆布を大陸に売り込んで、巨額の利益を稼ぎ出したのだ。こうして薩摩藩は500万両の借金を清算し、逆に250万両もの蓄財を行うという、奇跡的なV字回復を成し遂げた。薩摩藩が討幕の主役を演じることになったのは、ここで得た資金の力が大きい。

95:第五の味覚発見
欧米では全く受け入れられなかった。欧米でもチーズなどグルタミン酸の味は楽しまれている。しかし、欧米の科学者はグルタミン酸の味をほとんど感じず、何度がテストが行われたものの、「無味」という結論が下された。

98:1960年代には、味の素社はグルタミン酸の一部を石油からの化学合成で供給。原料が昆布であろうが小麦粉であろうが石油であろうが、出来上がったものは同じグルタミン酸という分子であり、そこに差異は何もない。原子に個性はない以上つながり方さえ同じなら同じ分子。しかし、味の素社は十数年で合成法から撤退し、今ではサトウキビからの発酵法による生産。

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2018年08月09日

大航海時代を生んだ香り ― 芳香族化合物



大航海時代が始まったきっかけが13世紀末に小アジアに出現したオスマン帝国にあることはいうまでもない。オスマン帝国は地中海の制海権も握り、香辛料の産地である東南アジアと、一大消費地であるヨーロッパとの貿易が自由にできなくなる。

そこで、オスマン帝国の勢力圏を避け、アフリカ大陸を大きく回って直接アジアに向かう経路の開拓に乗り出したのだ。これに成功したのがポルトガルで、1498年に弱冠28歳のヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸の南端を回ってインドに到達した。こうして、長らくスパイス貿易の独占で繁栄してきたヴェネツィアは没落し、ポルトガルがヨーロッパ最初の海洋国家となる。

アメリカ大陸の存在を知らず、ポルトガルとは反対に西に向かったのがコロンブスのスペイン艦隊で、大西洋を渡って西インド諸島に到着する。そこで発見したのが、新たな香辛料、唐辛子である。唐辛子はヨーロッパではさほど流行らなかったが、アジア各地で熱狂的に受け入れられる。インドのカレーも、韓国のキムチも、タイのトムヤムクンも、16世紀以降にアメリカ大陸の唐辛子がヨーロッパ人によってもたらされてできたものなのだ。

英欄戦争で勝利したオランダが、優先的にモルッカ諸島の小さな島を選び、代わりにニューアムステルダムと呼ばれていたマンハッタン島をイギリスに割譲したというエピソードも当時の香辛料の価値を物語っていて興味深い。

もともとは、食肉の保存のために珍重された香辛料だが、その需要は18世紀に入ると減少する。冬でも育つ家畜用作物の開発や、地味を痩せさせない輪作法の確立などが相まって、ヨーロッパの長い冬でも家畜を飼育できるようになったのだ。このため年間を通して新鮮な肉が得られるようになり、香辛料の必要性が減った。19世紀になって冷蔵技術が開発されて、この傾向は決定的となる。
77:カプサイシン
カプサイシンにより痛みを感じると、脳はそれを癒すべくエンドルフィンなどの脳内物質を放出する。辛い食品を食べるのは辛いはずなのに、食後に不思議な満足感を覚えるのはこのせいだ。長距離を走っているうちに快感を覚える、「ランナーズ・ハイ」と似た原理といえる。

79:ニューアムステルダム
1665年から行われた英欄戦争では、勝ったオランダがモルッカ諸島の小さな島であるラン島を取り、代わりに北米大陸の片隅、ハドソン川の河口にある細長い島をイギリスに割譲した。これは当時にしてみればオランダに有利な取引と思われたが、現代のわれわれから見れば大損となった。


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2018年08月08日

人類が落ちた「甘い罠」ー 砂糖




これだけ人類に愛されている砂糖だが、どういう分子が甘味を感じさせるのか、実はまだ分かっていないのだという。砂糖、そして人工甘味料の化合物はどれも甘いが、構造的には似ても似つかない。それどころか、有機溶剤のひとつクロロホルムや、爆薬のニトログリセリンなども強い甘味を持つが、構造には呆れるほど何の共通点もないという。

55:砂糖は万能薬
医学の最高権威であった11世紀アラブの大学者イブン・スィーナーは、「砂糖菓子こそ万能薬である」と断言している。(中略) 栄養状態の悪かったこの時代にあっては、カロリーの高い砂糖を与えるだけで病人が元気を回復したケースも多かっただろう。何より、砂糖の白く美しい輝き、そして魅惑的な甘い味わいはいかにも神秘的であり、プラセボ効果を引き出すのにこれ以上のものはなかったに違いない。

57:16世紀半ばにもなると、アメリカ大陸には3万人以上が働く製糖所が40か所も完成し、ヨーロッパに砂糖を送り出していた。ここで必要となった膨大な労働力は、アフリカから連行された黒人奴隷によってまかなわれた。その数は、トータルで1千万とも2千万ともいわれる。

64:人工甘味料
現在、人工甘味料の王者に君臨するのは、砂糖の600倍もの甘さを誇るスクラロースだ。この化合物は、砂糖分子の水酸基(OH)の一部を塩素に変換したもので、1976年に初めて合成された。これを作った研究員はまだ英語に不慣れで、教授が「その化合物をテストしてくれ」と指示したのを「味見(taste)」と聞き違え、舐めてみたら驚くほど甘かったという、まるで冗談のような経緯で発見された。


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2018年06月12日

唐辛子の王様「香川本鷹」

砂糖消費量



















































先週末の日曜日、月一回の香川大学公開講座「讃岐ジオサイト探訪」で手島へ。瀬戸内国際芸術祭で豊島(てしま)の方が有名になったが、手島は丸亀沖にある島。丸亀港から出た船は、広島の港に2か所寄った後、さらに、小手島を経由し、約1時間かけて手島に着く。広島には何度か行ったことがあるが、手島まで来たのは初めて。

手島では、瀬戸内の基盤岩である花崗岩と、花崗岩マグマの近くで接触変性作用を受けてできたホルンフェルスとの境界が観察できる。熱水変性を受けてタングステン鉱脈が形成されていて、戦時中はタングステンが採掘されていたということ。戦後、輸入が再開されて、採掘は終了した。

もう一つ、手島ではトウガラシの王様といわれる「香川本鷹」が栽培されている。さやの大きさは5cmもあり、鷹の爪の何倍もある。大きいうえに、辛さも鷹の爪の何倍もある。本鷹は生産量が少なく、どの辛さランキングでも発見できなかったのだが、上記ランキング中「三鷹」が本鷹の交配品種であることから、これに近い辛さと思われる。

世界には、まだまだ上がある

 トウガラシの栽培で最高の立地条件を備えているのは、瀬戸内海の島々なのです。瀬戸の海は高温で、雨が少なく乾燥しています。これらの島で作るトウガラシにこそ最高の価値があるのです。よい立地条件で栽培されたトウガラシには、辛み成分の主役であるカプサイシンを大量に含んでいるからです。
 こうしたことから、昭和30年ごろには塩飽諸島や荘内半島など、立地に恵まれた地域で盛んに栽培され、アメリカやヨーロッパにまで香川本鷹が輸出されていました。夏場になると、これらの地域では畑一帯が赤いトウガラシで色づいていました。
 ところが、社会状況が変化し、外国からの農産物が大量に輸入される時代となり、トウガラシ栽培もその影響を受け、生産農家が激減。現在では、詫間町などほんの数軒で細々と受け継がれ、幻と言われるようになったのです。


shikoku88 at 23:52コメント(0) 

2018年06月10日

竹林整備

生産年齢人口











































梅雨の晴れ間の土曜日、早朝に香川を出て、「まちづくり推進隊高瀬」の仲間とレンタカーで京都へ向かう。鳴門大橋を渡り、淡路島を通って、明石海峡へ。神戸から大阪と順調。目の前に生駒山が迫る。「あれ、京都のはずなのに」と一瞬不安になるが、目指す木津川市は奈良との県境にあった。

少し迷って(山の中なのでナビが不正確)NPO加茂女(かもめ)の竹林整備の現場で、理事の曽我千代子さんらからお話を聞く。団体の発足は35年前の加茂町(奈良県との県境に新しくできた南加茂台ニュータウン)に引っ越してきた女性たちの公民館サークルが始まりということ。

当時の住宅地の周辺は、山城筍の主生産地で、風光明媚な竹林風景が広がっていたという。しかし、次第に、値段の安い中国産筍や竹細工による生活用具への需要が減り、竹林が荒れだす。人の手が入らなくなり、竹林が荒れると、そこにゴミの不法投棄が始まり、とうとう産業廃棄物の埋め立て地になってしまう。

この苦い経験から、竹林の整備を現在は中心に活動している。ボランティアに頼った整備活動だけでは活動が広がらないことから、竹の利用に力を入れている。商品化した食品に、「筍お焼き」「筍グラッセ」「ちくりんジャム」など。

当然、それだけでは使える量は限られるので、竹をチップ化して、肥料や炭にもしている。竹にはもともと殺菌消臭効果があるので、トイレにも使えるという。排泄物と混じった竹チップは良い肥料になる。チップ化のための機械(チッパー)は補助金を利用してイタリア製を購入。日本のは大掛かりで高額な機械ばかりで、欧州のほうが中小メーカーの良いものがあるとか。確かに、日本でも昔は、各地に地場の農機具メーカーがあったが、集約されてほとんど残ってない。

三豊市でも放置竹林は問題になっている。竹林に再び商業価値をもたらすには

shikoku88 at 18:30コメント(0) 

2018年05月23日

第2部 食料生産にまつわる謎




ある人間集団による他の人間集団の征服を可能にする直接の要因が、「銃、馬、病気など」であることは第1部で見た通り。では、どうして、ある地域ではこれらを持つようになり、他の地域では持たなかったのか?

その結論が、「大陸の陸塊がどちらの方向に伸びているか」という、スケールは大きいものの、単純な答えであることに驚く。この究極の要因からいくつかの因果関係を経由して、ある人間集団による他の人間集団の征服を可能にする直接の要因が発生したのだ。


生産年齢人口

154:食用にすることのできる数少ない動植物を選んで育てれば、それらが1エーカーあたり0.1%ではなく90%を占めるようになり、結果的に1エーカーあたりの産出カロリーを高めることができる。したがって農耕民は、土地を耕し家畜を育てることによって、1エーカーあたり、狩猟採集民のほぼ10倍から100倍の人口を養うことができる。この数字は、食料を自分で生産できる人々は、当初から狩猟採集民よりも人数面において軍事的に優位であったことを示している。

178:一歩の差が大きな差へ
食料生産を独自に始めた地域は世界にほんの数か所しかない。それらの地域においても、同じ時代に食料生産がはじまったわけではない。食料生産は、それを独自に開始した地域を中核として、そこから近隣の狩猟採集民のあいだに広まっていった。その過程で、中核となる地域からやってきた農耕民に近隣の狩猟採集民が侵略され、一掃されてしまうこともあった。

185:農耕を始めた人と始めなかった人
紀元前8500年頃には、メソポタミアの肥沃三日月地帯で食料生産がはじまっていたが、気候的にも地形的にも似ているヨーロッパ西部では、その3000年後の紀元前5500年頃になるまではじまっていない。

186:すべての食料生産者が狩猟採集民より快適な生活を送っているわけではない。今日、狩猟採集民より快適な生活を送っている食料生産者は、裕福な先進国にしか存在しない。(中略)しかし、世界の食料生産者の大部分は、貧しい農民や牧畜民によって占められているのだ。

187:多くの地域において最初の農耕民になった人々は、狩猟採集民より体のサイズが小さかった。栄養状態もよくなかった。ひどい病気にもかかりやすく、平均寿命も短かった。

244:肥沃三日月地帯での食料生産
メソポタミア文明の出発点は、農耕と家畜の飼育にさかのぼる。この文明は、食料生産の実践が人口の稠密な人間集団の形成を可能にし、余剰食料の貯蔵・蓄積によって非生産者階級の専門職を社会的に養うゆとりができた結果として誕生した。

341:東西方向への伝播はなぜ速かったか
肥沃三日月地帯の作物は、どうしてそんなに速い速度で伝播していったのだろうか。(中略)ユーラシア大陸が東西の方向に横長であることが影響している。東西方向に経度が異なっても緯度を同じくするような場所では、日の長さの変化や、季節の移り変わりのタイミングに大差がない。

354:大陸が東西に広がっていること、あるいは南北に広がっていることは、農業の伝播のみならず、技術や発明の広がっていく速度にも影響をおよぼした。たとえば、紀元前3000年頃に西南アジア付近で発明された車輪は、またたくまに東西方向に広がり、数世紀もたたないうちにユーラシア大陸の大半の地域で見られるようになった。ところが、先史時代のメキシコで独自に発明された車輪は、南米のアンデス地方にまで南下していない。紀元前1500年までに肥沃三日月地帯の西部で使われるようになったアルファベット文字は、1000年もたたないうちに、西はアフリカ大陸北岸のカルタゴまで、東はインド亜大陸まで伝わっているが、先史時代の中米で少なくとも2000年にわたって栄えた表記法がアンデスにまで伝わることはなかった。


shikoku88 at 19:30コメント(0) 

2017年10月06日

Township

DSC_0145








































































アパルトヘイト政策時、黒人の居住区として作られたのがTownship。それは、白人と黒人の貧富の格差でもあった。

アパルトヘイトがなくなった現在、黒人もどこでも自由に住める。豊かになった黒人はTownshipを出ていき、貧しい人たちが残った。さらに、都市化が進んで、地方から都市に人が流入するようになり、収入のないこれらの地方出身者が身を寄せるのもTownshipだ。その結果、治安が悪化し、地元の人たちも近寄らない。

もっともTownshipもいろいろで中流階級化しているところもある。BloemfonteinでTownshipにあるBarに連れて行ってもらった。というか、「せっかく日本から来たなら俺たちのルーツを見にこい」とばかりに大学教授に連れていかれたのだ。

ビールを飲んで、つまみに出てきたのは、ご覧の羊。頭と足だけで、胴体がない。聞けば、アパルトヘイト時代、通常部位の肉は白人が食べ、黒人に回ってくるのは解体された後の頭と足と内蔵だけだったという(内臓は腸詰になってこの後出てきた)。これを長年食べていたのが彼らのソウルフードとなり、豊かになった今もここに集まって食べるのだそうだ。

shikoku88 at 20:21コメント(0) 

2017年10月02日

突撃!世界の晩ごはん



世界中を回って初対面の人のお家で晩御飯を食べる、という楽しい本。私もよく友達の家でご馳走になったり、またうちに呼んで食べたりをよくやっている。一昨日も、釜山の展示会で知り合ったばかりのスリランカ人が、「この後日本に休暇で行く」というので、「うちにおいでよ」と誘い、帰国当日にうちにやってきた。

日本人は昔に比べて家に人を上げなくなった。冠婚葬祭も以前は家で行うのが当たり前だったが、まず披露宴が、ついで告別式が家から消えた。家の狭い都会では私が上京した1980年代にはすでに、そして、うちの田舎でも1990年代から急速に民間の結婚式場や斎場で行われるのが当たり前になった。こうした冠婚葬祭は地域の人たちが手伝うことを前提にしていた。コミュニティ中心の生活が維持できなくなり、機会が損失することで、さらにコミュニティの関係は希薄化している。

筆者がキッチハイクを思い付いたのは、5年前に共同体の成り立ちに関する文献を読んでいた時だったという。
235:「縄張りに入ってきた部外者と友好を深めるためには、一緒に食事をするのが一番だ。地球上のすべての民族が根源的にこの慣習を持っている」
それで、勤務していた博報堂DYメディアパートナーズを退職して、キッチハイクの旅に出る。その模様は、BRUTUSで連載され、帰国後に書籍化されたのがこの本。

20代の頃読んだ大前研一の本に、「ランチをひとりで食べるなんてもったいない」とあり、それ以来、なるべくランチは社外の誰かと食べることにしていた。人間の本能として「食事した人と仲良くなる」というのは真実だ。一緒にのめばもっと仲良くなるかもしれないが、毎日飲んでいては体を壊すし、勉強する時間が無くなるので、もっぱらランチ。


shikoku88 at 20:40コメント(0) 

2017年09月30日

「世界一パラソルの多い海水浴場」海雲台

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今回の展示会会場BEXCO近くは高級ホテルしか無くて予算にあわず、地下鉄で二駅離れた海雲台の東横インへ。ここは、韓国を代表するビーチリゾートということ。「世界一パラソルの多い海水浴場」としてギネスブックにも登録されているらしい。釜山国際映画祭(BIFF)の会場でもある。

リゾートということで、韓国人の好きなモノがよくわかっておもしろい。簡単に言うと、駅の東側に飲食店が、西側にホテル街が集中している。高級ホテルは当然、ビーチ沿いのロケーション。

まずは膨大な数の飲食店。高級店から屋台まで。名物の海鮮料理とカルビ。海鮮では日本では食べてないエイや、生きたまま皮をはいで、そのままのたうち回っているまま焼くヌタウナギ(と言っていたがあれはウナギと違うだろう)にフグなど。仕事が始まる前にお腹を壊してはマズいので、まずはフグ鍋から。てっちりと言えばてっちりなのだが、無造作にぶつ切りにしたフグを唐辛子の入ったスープで食べる。とんでもなくアンモニア臭いエイは、カルビみたいにコチジャンを付けてサンチュで巻くとなんとか食べられる。スジが固くて軟骨のような歯ごたえ。

海雲台名物のカルビは、今回2回行く機会があった。着いた初日にLBS同窓生に車で連れて行ってもらった郊外の高級店と、現地企業と会食した街中の老舗。高級店の方は車でしか行けない半島にあり、ガイドブックには載っていない。この半島は長らく軍事施設として一般立入禁止になっていて、近年になって開発が始まったらしい。海を見下ろせる絶好のロケーション。店員も皆若くて、洗練された感じ。

老舗の方は、李氏朝鮮時代の貴族邸を意識した造りで、中庭を客室が取り囲んでいる。店員はベテランが多く、結構こちらの会話に絡んでくる。ラストオーダーが終わると、「これで私の仕事は終わり」とばかり、一緒に酒を呑んでいた(笑)。普段、焼肉を食べない私には違いが分からなかったが、一緒に行った肉好きの同僚はここの売りの骨付き生カルビを、「今まで食べた中で一番うまい」と絶賛していた。

次に、ホテルの多さに圧倒される。こちらも高級ホテルからゲストハウスまで多種多様。177軒ものホテルがやっていけるということは、夏のシーズンには一体どれだけの観光客が来るのか 驚いたのはその多くが「レジャーホテル」であること。駅の西側に数十件の巨大ラブホ街がある。こちらもひょっとするとギネス記録ではないか。

shikoku88 at 18:01コメント(0) 

2017年09月26日

プルコギ

Ondol

























韓国に毎月仕事で行っている友達から聞いた話だが、釜山はプルコギ発祥の地ということ。朝鮮戦争で北朝鮮軍にほとんど対馬海峡に落とされそうになった韓国政府が臨時首都を置いたのが釜山。その時の大統領官邸が日本時代の知事公舎だったのはおいておいて、米軍は休戦後も当然釜山に韓国防衛の最後の砦として基地を置いた。

貧しかった朝鮮とは違い、アメリカ軍は物資豊富。この基地から払い下げ(流出?)した牛肉を韓国人の好みにあうように味付けしたのがプルコギの始まりだという。

調べてみたのだが、韓国系の日本語サイトではそのような記述はない。

肉に味つけをして、焼いて食べるという調理法は古くからあり、高句麗の時代(紀元前37年〜668年)に作られた「貊炙(メッチョク)」という串焼きが起源とされています。その後、朝鮮時代末期の宮中で、牛肉に下味をつけて焼いた「ノビアニ」という料理が作られ、この料理が現在のプルコギに変化していったとされています。

起源が古いというのは間違いではないのだろうが、当然、宮中だけの話。日本同様、水稲栽培主体の朝鮮半島で、農耕に必須の牛を庶民が食べることはあり得ないと思う。

そう思って他のサイトを探したら、詳しい記事を見つけた。(食の雑学「焼肉文化と韓国の肉食の歴史」)

 何時の世も商才に長けた人物はいるようで、この混乱の中で在日朝鮮人が、牛の内臓肉を直火で焼いて売り出し大当たりしたのが、日本での焼肉文化発展の一つのキッカケとなりました。これが所謂「ホルモン焼き」の始まりです。
 つまり、韓国の今の焼肉文化は、戦後の闇市で在日朝鮮人のアイデアから生まれた「プルコギを発展させた創作料理」が始まりでだったのです。それに韓国ではもともと内臓肉を食べる習慣は無かったようで、むしろ内臓肉を好む(豚の内臓ですが)のは中国人です。初期の韓国の焼肉店で使われた鍋は、日本ではジンギスカン料理に使われるもので、ジンギスカン料理でこの鍋が活用されだした頃に、焼き肉文化が日本から韓国へ伝った証とされています。
 今の韓国の牛肉に偏った食習慣は、朝鮮動乱後に進駐した連合国軍(主に米国)の食習慣が影響したと考えられます。
 どこの国でも占領軍の倉庫から流出(横流し?)されるものは多いようで、牛肉もまた例外では無かったと想像できます。つまり、安価(?)で手に入った牛肉をプルコギの形式で提供することで、復興と共に徐々に牛肉が一般に浸透して行ったものと思われます。
「今の韓国の焼肉文化は実は、戦後の日本の闇市で生まれた」というのはオドロキ。それが、朝鮮戦争後に在日朝鮮人によって韓国に広がったのだ。

この記事はこう続く。一時、この議論は日本でも有名だったと思うのだが、昨今は「いきなりステーキ」に代表されるように、肉食ブーム。先進国の肉食が飢餓を生み出しているとの指摘に耳を傾けるべきではないか。
肉の生産は驚くほど生産性が低く、エネルギー効率の悪い分野です。肉の消費は=穀物の消費です。先進国で消費される肉類を生産するのに、全世界の穀物生産量の約半分の量が必用だと云われています。そしてこの貴重な穀物を使って生産される食肉を、全世界の中でも少数の資本主義国家が主に消費しています。この際限ない肉類の消費増大は、確実に世界に飢餓地獄を作り出し、またそれを拡大して行く傾向があります。


shikoku88 at 18:41コメント(0) 

2017年09月18日

サントリーと洋酒文化

美酒と黄昏
小玉 武
幻戯書房
2017-03-24



サントリー宣伝部といえば、開高健、山口瞳、柳原良平ら著名作家を輩出した「文学界の名門」。そこで、彼らの後輩として、最初は彼ら「上司」に仕え、後に彼らが独立してからは原稿依頼の仕事で付合ったという小玉武による随筆集。

簡単な、しかし彼ら作家の個性を表すエピソードが満載で、それこそ秋の夜長に酒を呑みながら読むにはよさそうだ。

21:現代作家の中でも丸谷才一は、俳句を詠む粋なセンスを持つ文人であった。古希を迎えた年に句集『七十句』(立風書房・1995)を出して話題となった。俳諧の人なのである。(「佐保姫ー丸谷才一の八十八句」)

54:「一緒にやりなさい。ぼくは四時以降を飲む時間にしているんだよ。もう書くのはいいんだ。ウイスキーを牛乳で割って飲もう。うまいし、調子がいい」(洋酒天国ー山本周五郎と関門園)

142:野坂塾とは何か。
戦争を語り継ぐ。時事放談。時に猥談。時にお土産付。時に永六輔、小林亜星、桜井順、阿川佐和子、檀ふみ、笑組出演。主催者の希望として、時に吉永小百合様出演もあるかもしれない。ような気がする。――野坂塾・塾長 野坂昭如 


shikoku88 at 18:17コメント(0) 

2017年08月26日

肉もっそ

Internship








































今年のホスト役となった「地域づくり研修全国大会」@三豊市。研修も頑張らなくてはいけないが、地域の食への関心は当然高い。

県外での知名度から言えば、〇彰瑤Δ匹鵝↓骨付き鳥、q果濟┝僉△世蹐Α初日到着してさっそく昼にうどん屋を目指す人もいたが、到着時間の関係で、翌朝の「朝うどん」に参加した人も多かった。早朝からうどんを食べるのに地元民の方が驚き(笑)。

「骨付き鳥」は丸亀地域発祥のビールのあてなので、三豊では提供せず。「餡餅雑煮」は、季節外れではあるが、懇親会で提供。私自身も、酒席で餡餅雑煮を食べるのは初めて。おまけに、ばら寿司は砂糖&金時豆入り。どこまでも甘いもの付きの讃岐人である。

二日目に味わっていただいたのが「肉もっそ」。これは私も初めて。三豊市でも、豊中地域で食されていたもので、「やべち」と言われる地域の共同作業(清掃、草刈り、農作業など)の際に、その補給食&ごちそうとしてつくっていたのが「もっそめし」なのだそうだ。

簡単にいえば、炊き込みご飯のおにぎり。その最高峰で最も贅沢なバージョンが牛肉の入った「肉もっそ」。農業が機械化される高度経済成長期まで、牛は農作業のために各農家で飼われていたので、この大切な労働力を食べる習慣は農村では全くなかった。それだけ特別なご馳走ということになる。

これを商品化したのは、まちづくり推進隊豊中。地域の食材見直しによる活性化活動の一環で行ったということ。調理に関わっているのはまちづくり会員9名で、イベントなどの決められた日に販売している。限定販売のためか、発売以来4年間、いつも完売だそうだ。これはスゴイ

shikoku88 at 17:56コメント(0) 

2017年06月02日

甘いもの好き

栄養と料理 2014年 11月号 [雑誌]
女子栄養大学出版部
2014-10-09


末っ子が高校の図書館で不要になった『栄養と料理』のバックナンバーを貰って来た。特集「甘いもの好きの血糖対策」その中に、「糖尿病が多い!四国の甘いもの大好き県 香川&徳島」という取材記事がある。以下、記事からの抜粋。

糖尿病の全国統計を見ると、徳島県や香川県は、たいてい上位に鎮座
うどんやラーメンに加えて、甘いもの好き。

<香川>
・野菜摂取量全国ワーストレベル
・うどん好き&早食い(平均週に3-4回、副食をつけず、一気にすする傾向)
・運動不足(どこに行くにも車)
・まんじゅう消費量が全国3位(高松市)
・酢飯が砂糖でジャリジャリしている
・雑煮も甘い白みそにあんこもち入り
・酢の物なのに酢の味がしない

思い当たる点多数。 私の場合、車に乗るより自転車に乗っている方が多いから、「運動不足」は当てはまらないにしても、甘いもの好きは当てはまる。食習慣は大人になってから最も変えにくいものの一つだろう。子どもの時に食べ慣れたものを人は一生食べるのだ。

記事の中で記者が驚いていたのは、スーパーで見たちらし寿司(そもそもすし飯が甘い)に、さらに甘い金時豆が乗っていたこと。なるほど、確かに、香川以外では見たことがない気がする。この金時豆、パンにも入れられて売られている。これも、他県にはない?

金時豆の天ぷらも、うどん屋では定番の一つですが、ダメですか


Internship

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2017年05月24日

幸福の文学

酒肴酒 (光文社文庫)
吉田 健一
光文社
2006-02-09



引き続き、丸谷才一『別れの挨拶』から。丸谷さんは小説家だけでなく、優れた評論家でもある。本の中盤では、吉田健一のことを書いた「幸福の文学」が面白い。

「この本には、うまい料理を食べたりうまい酒を呑んだりするのが幸福なことだといふことが書いてある。これは日本の文学史ではじめての事件だった。大げさなことを言うふなと怒られるかもしれませんが本当なので、紫式部だって芭蕉だって夏目漱石だって、かういふ幸福のことは書いてないのである」

それで、「この本」というのが、上記の『酒肴酒』。残念ながら読んだことがないのだけど、例えば、NYの朝飯屋についてこんなふうに書いているらしい。

「卵の匂いがする卵や、バタの匂いがするバタの朝の食事を出す」

ウーン、簡潔にして十分。瞬時に、読者がこれまで食べた中で最もうまかった洋朝食の匂いを思い出したに違いない。

では、吉田健一はどうやってこうした文章が書けたのか。まずは、幼少の頃から良いものを食べてないとダメだろう。そのうえで文才がなくてはならない。

ご存知の通り、吉田健一は吉田茂の長男。戦前、外交官であった父の転勤に伴って、6−14歳の多感な時期を、青島、パリ、ロンドン、天津と海外で過ごしている。外交官は海外赴任中の手当は特に厚かったので、当時としては紛れもない特権階級である。

その後帰国して、暁星中学(旧制)へ編入、卒業後はケンブリッジ大学のKing's Collegeに入学している。しかし、そこで文学の教授に、「文学をやるのなら、母国に戻って、母国語で書くべきだ」と言われて大学を中退して帰国している。

母の死後、吉田茂が愛人であった新橋の芸者を家に迎え入れたため、親子関係は悪くなったと言われている。そのためか、父吉田茂についてほとんど語ることはなかった。最終的に和解できたのかどうか、気になる。



83:幸福の文学
というのは、明治末年以後の日本文学では、人生は無価値なもので生きるに値しないといふ考え方が大はやりにはやっていたのだが、その考え方と最も威勢よく争った文学者はほかならぬ吉田(健一)さんだったから。彼は、人生が生きるに値するものであり、その人生には喜びや楽しみや幸福感があるといふことを主張した。

95:社会的人間であることを嫌うという点では、この病者への執着は、例の「余計者」(これも重要な文学用語)とよく似ている。これはロシア文学史の概念で、社会に適合できない知的でニヒリスティックな人物のことだが、これも明治末年以来、日本では非常に受けた。

122:ルネサンス人をたたへる
あの和田(誠)さんの回想は文学的虚構、自己美化ではなく、まったくのリアリズムで会ったと思ふ。などと変なことを言い出したのはジョイスの例があるからだ。

147:ある危険な本の読後に
マクス・ウェーバーは『職業としての学問』といふ有名な講演で、学問が必要とするものは体系的な研究作業、偶然的な思いつき、情熱的な問いかけの三つだと言っていた。これはたしかに信用できて、一方わたしの体験から言わせてもらふと、エセイが必要とするものは、芸としての文体、展開のための構成、効果的な演出の三つだろう。そして後者三つは小林(英雄)はたしかに不自由しなかったけれど、前者三つのうち偶然的な思いつき以外の二つは持ち合わせていない。


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2017年05月13日

生マッコリ

Internship


















今回のソウル訪問で見直したのがマッコリ。仕事で訪ねた会社の社長夫人が韓国No.1のマッコリ会社の社長で(お父さんが創業者)、カルビチムを食べながら長寿マッコリを呑んだ。

現地で飲むと、乳酸発酵で酸味と炭酸発砲でスッキリしておいしい。翌日も、LBSの後輩とチジミを食べに行ったのだが、「チジミにはマッコリでしょう」と言われ、別ブランドの樽だしマッコリを頂く。

気に入ったので、帰国の日、ホテル近くの食料品店で免税限度の一人三本買って帰る。店員は片言の日本語ができ、「立てて置いてください。揺らさないように。早く飲んでください」と言われる。そうは言っても、機内持ち込みはできないから、預けるしかない。不安を抱えて成田でカバンを開けたら、詰めておいた洗濯物がかなり濡れていた。

後から調べたら、生マッコリは本当に「酵母が生きたまま」で発酵が止まってない。この点、非加熱処理(フィルター)で酵母を取り除き、発酵が止まっている日本の「生」ビールなどとは話が違う。炭酸ガスを製造後も常に出している状態だから、ガスを逃すため蓋を緩くしてあるらしい。だから、横にしたらそれだけで漏れてしまうのだ。揺すったらなおさらだ。賞味期限は「製造から10日間」とある。

というわけで、持ち帰るなら、
・ふたを閉め直す(飛行機の預かり荷物は上空で冷えているので、韓国⇒日本位の飛行時間で炭酸ガスで爆発することはなさそうだ)
・多少漏れてもいいように、周りを濡れてもいいタオルなどで包む
・さらに他の荷物が濡れないよう万全を期すなら、それを密閉できるビニール袋に入れる
というのがよさそうだ。

因みに、韓国からのマッコリ輸入額を調べてみると上図の通り(単位は千ドル)。2011年の韓流ブーム時がピークで$48M(=50億円)のマッコリが輸入されていた。その後ブームの終焉とともに減り続け、2014年は$9M(=10億円)と8割減った。尤も、韓流ブームが始まるまではほとんど輸入されていなかったから、減ったものの定着したともいえる。 

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