2024年09月02日

ギボン家系

ギボン自伝 (ちくま学芸文庫 キ 2-11)
エドワード ギボン
筑摩書房
1999-12-01


『ローマ帝国衰亡史』で有名な英歴史学者のエドワード・ギボン。その自伝なのだが、これがいわくつきの書。というのは、あのギボンの自伝として長年読まれてきたのは、シェフィールド版「ギボン自伝」。

編集者シェフィールドは自分の死に際して、彼が所蔵する一切のギボン関係資料の閲覧ないし公開を遺言によって厳しく禁止。ギボン死後百年記念の19世紀末まで丸々1世紀。1894年になって、この「自伝」に関するギボンの草稿がすべての彼の他の手稿と同時に公開されたときに、文壇や学界はシェフィールドによる原文の改変や文章の任意な省略や置き換えの予想外の程度に驚愕。

編集者であるシェフィールドが自分の物でもないギボンの原文を公開禁止にできるのか?と思ったのだけど、ギボンは生涯独身で子がいなかったから、可能だったのか?

8:私の家系は元来ケント州の出であり、この地の住民は太古から愛想のよさ、勇敢さそして自由という地方的な気性を今日に伝えている。その境がサセックスと外洋に臨むこの州の南部地域は以前は広大なアンデリダ森林に一面覆われていたし、今日も依然としてウィールド地方つまり森林地帯なる呼称を保持している。

9:騎士道の時代に兵士の兜と盾を飾り立てた家紋のしるしは、今では自家用馬車を建造する財力の持ち主が各自の好みに従ってその鏡板に描いてよい空虚な装飾に成り下がっている。私自身の家紋は、まだ紋章院が血統と名前の区別を厳格にしていた時代にケント州のギボン家が使用していたのと同じ、「紺地に三つの銀色帆立貝殻に囲まれて後ろ足で立つ正面向きの獅子」である。

13:John Gibbon, born 3 November 1629
Grammar School→Jesus College, Cambridge University
一兵卒および旅行者として諸外国を遍歴してフランス語とスペイン語の知識を身に付け、しばらくジャージ島で暮らした後に大西洋を渡って新興のヴァージニア植民地に1年間以上居住(1659)。王政復古の後にイングランドへ帰国した彼は、間もなく結婚してロンドン塔に近い、後ほど私の祖父に伝えられたセント・キャサリンズ・クロイスタの家に落ち着き、やがて(1671)紋章官補たる職位と称号で紋章院に就職した。彼はこの地にあって、50年近く自分の義務と趣味が一つの仕事に結合するという稀有な幸運を享受した。彼の名前は紋章院の中で記憶され、彼の多くの手紙は今も保管されている。

14:彼(John)の兄弟たるレドンホール・ストリートの亜麻織物商マシュー・ギボンは娘一人と息子二人をもうけた。息子とは即ち1666年生まれの私の祖父エドワード・ギボンと、後にカーライルの主任司祭になったトマスである。

18:祖父エドワード・ギボン Tory
南海会社理事の最初の訴追の際に身柄を収監される。彼が宣誓にもとづいて下院に引き渡した財産額は、それ以前の不動産処分を別にして総計161,543ポンド(遺留分1万ポンド)。

19:父エドワード・ギボン1707
Westminster School => Emanuel College, Cambridge
学者及び紳士しての自由教育の恩恵。
フランス滞在後、1734年の総選挙で下院議員。Tory




shikoku88 at 21:48コメント(0) |  | 旅行 

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