2023年05月05日
総合商社
戦後、総合商社への道を辿る伊藤忠。その「総合商社」という言葉は、1955年ごろからジャーナリズムで使用され始めたらしい。
その時に、大きな役割を果たしたのは、11年間にも及ぶシベリア抑留から帰国した元陸軍参謀の瀬島龍三だった。106:総合商社敗戦後、分割されていた三菱商事、三井物産が再合同(1954と1959)伊藤忠、丸紅などの繊維商社が資源、機械などの取り扱いを増やして、総合化を目指した。
瀬島は旧陸軍を真似たわけではない。旧組織への反省から、学歴主義、年次主義を排除した。112:業務部(参謀本部)に瀬島龍三入社繊維商社から総合商社へと変わるために扱い商品を増やしていた伊藤忠にとって長期的かつ全社的に針路を考えるセクション。
135:陸大で教わった参謀の要諦をそのまま伊藤忠の業務本部に移植陸軍とは違い、業務本部には現場で業績を上げた者だけを兼務者としてチームに加えた。
109:川崎製鉄 初代社長 西山弥太郎
資本金5億円しかないのに163億円をかけて年間100万トンの粗鋼を生産する銑鋼一貫工場を千葉に建設。
西山社長の娘婿が伊藤忠金属部 高原(陸軍士官学校→東大法学部)
116:警察庁長官 國松孝次
「捜査現場では先輩たちからの指導が大切なんです。私が入った頃、現場の警察官になっていた人は陸軍士官学校を出たり、海軍兵学校を出た人がまだ現役にいました。(中略)それはしっかりしていましし、優秀でした。世が世なら、将軍になる人たちが敗戦になり、陸士を出たけれども行くところがなかったから警察官になったんです」
122:瀬島龍三
33歳からは11年間、シベリアに抑留され、俘虜収容所で過ごしている。帰国してから2年間は何もしていない。44歳で会社員になるまで本格的な職業生活はなかった。そんな瀬島が本領を発揮したのは50歳で業務部長になって以降だ。営業面での貢献ではなく、経営者を支える参謀、幕僚として社内の組織を整備し、総合商社化に貢献した。
133:「瀬島軍団」
社内からエリートを集めて業務本部を形成。
社内の司令塔として、瀬島は大きな権限。
145:「せいぜい血のしょんべん、出しなはれ」
1969年インドネシアで石油開発に取り組んだガス石油部長の高原とトイレで一緒になった二代目伊東忠兵衛が。
159:1971いすゞとGMの提携を仲介
自動車産業の国際分業化の動向を見通し。
183:瀬島龍三の仕事
いすゞ、GMの提携に見るような調整役として機能。世界最大の企業といすゞが提携できたのは、いすゞの代わりに交渉した伊藤忠が両社に気を配り、落としどころが分かっていたから。
