2022年12月15日

日本人で初めてのピュリッツァー賞

テロルの決算
沢木耕太郎
文藝春秋
2014-01-24



舞台写真のように鮮明で、劇的な浅沼稲次郎刺殺の瞬間を捉えた写真。それで日本人で初めてのピュリッツァー賞を取ったのが毎日新聞のカメラマン長尾靖

面白いのは、長尾カメラマンは仕事熱心なタイプではなく、言われただけ、最小限の仕事しかしないので社内で有名だったという。刺殺は、会場向かって左側に陣取った愛国党員が舞台に駆け上がってビラをまいて取り押さえられた直後の隙をついて右側から舞台に上った二矢によって行われた。
275:日本人で初めてのピュリッツァー賞
仕事熱心で小回りのきくカメラマンは左側の通路に出て、激しい野次を飛ばしビラをまいた愛国党を撮っていた。だから、その瞬間を完璧なシャッターチャンスで捉えることができたカメラマンは、ずぼらを決め込んでいた長尾ら数人しかいなかった。しかも、彼には、当時は毎日新聞にしかなかった高性能の写真機があった。長尾の撮った写真のネガナンバーは12、それが最後の1枚だった。
そうして、伝説のカメラマンになった長尾靖。その後どんな人生を歩んだのか気になった。この成功体験でやる気になり、独立した?あるいは、単なるラッキーと覚めたまま定年まで勤め上げたのか。

調べてみると・・・そのどちらでもなかった。独立したかといえば、独立した。事件が起こったのは1960年10月12日。ピュリッツァー賞を取ったのが翌年。そして、1962年1月に毎日新聞を退職している。それで、熱心に仕事をしたのかというとそうでもないようで、それ以降、受賞歴もないし、仕事内容も「外国通信社の記事翻訳を手伝ったり、航空会社の広報誌の編集に参加したり」といった細かい仕事だったという。

生涯独身で、天涯孤独。2009年5月自宅アパートで孤独死しているのが友人によって発見された。長尾にしてみれば、平穏無事に勤めるつもりが、ピュリッツァー賞を取ったことでそれが困難になり、「しまった」という事だったのかもしれない。

257:俺だけは平気だという、過信
35年に入ってからも九州で右翼に卵をぶつけられる。
5月には衆議院前でアンモニア→結膜炎

304:叔父、村上信彦
「晋平氏は意見の相違を語り合うことを好まない。じぶんの固執した意見をもち、その境界線から一歩も他人を入れようとしない。と同時に他人の意見にも入り込もうとしない。我は我、人は人なりである。→二矢の問答無用型の性格形成

308:どんなことがあっても、自衛隊を辞めまい
自分の生き方の根幹をなしていた個人主義に徹すれば、あくまでも子供は子供であり親は親。

317:事件の翌日、九段会館で開かれた社会党臨時党大会(予定通り)
江田三郎書記長 それ以降の党の混乱と分裂の火元たる構造改革論。

325:取調べに当たった公安二課の安蔵警部と中村警部補は、17歳の少年のその冷静さに内心では舌を巻いていた。はじめは右翼特有の虚勢に違いないと思っていた。しかし、二矢の落ち着いた態度はついに最後まで変わることがなかった。

331:捜査本部は容易に共犯説を捨て切れなかった
背後関係を糾明せよという強い世論が、捜査当局に共犯を割り出さねばという十字架を背負わせた。


うおくら

























Harry Pot - Nationaal Archief, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=33358439による


shikoku88 at 18:59│Comments(0) | 政治

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