2022年12月14日
「こういう善人だから、浅沼は始末に悪い」
山口二矢がその殺人リストに浅沼稲次郎を加えたのは、師事していた赤尾敏の影響。赤尾は浅沼と不思議な因縁がある。年齢は一歳違いで、17歳の時、結核療養のため浅沼の郷里である三宅島に渡っている。そこで、浅沼の両親とも親しく付き合っていた。
赤尾敏といえば、何十年にもわたって毎日行われた数寄屋橋での演説。私も、社会人になって、あの辺りを通り、演説に遭遇することが何度かあった。「あの選挙のたびに出てくる人だ」(赤尾は衆院選、都知事選の度に立候補していたが、戦時中の翼賛選挙以外はすべて落選)といいう認識はあったが、どんな人かは本書を読むまでよく知らなかった。
まず、青年期の赤尾は社会主義者だった。関東大震災の際に軍部によって浅沼がリンチを受けているとき、赤尾も不敬罪で千葉刑務所にいた。赤尾は、左翼仲間の裏切りに幻滅し、獄中で転向する。しかし、それは「天皇制社会主義」とでもいうべきもので、これは浅沼の政治信条とほぼ同じ。
しかし、赤尾は当時から、反共反ソで親英米。翼賛選挙で全国第5位で当選するものの、戦争反対するので翼賛政治会から、中野正剛、鳩山一郎らとともに除名されている。その赤尾が最も恐れたのが浅沼稲次郎だった。
197:「こういう善人だから、浅沼は始末に悪い」赤尾のこの考え方を誰よりも純粋に、しかも過激に受け継いだのが、(中略)山口二矢。
132:大正12年関東大震災での社会主義者弾圧
戸山が原騎兵連隊の営倉から市ヶ谷監獄へとたらい回し。便の始末もできなくなるほどのリンチを受け、浅沼は一ヶ月後にようやく釈放された。釈放された浅沼を出迎えたのは友人でも家族でもなく早稲田警察の特高だった。
135:大正14年日本初の無産政党である農民労働党
書記長には27歳の浅沼が就任
「結党途上のゴタゴタを知るものは、皆しり込みして敢えて責任をとろうというものがない。そこで、窮余の策として浅沼君に貧乏くじを引かせた」(河野密)
143:父にかわる圧倒的存在
東京帝大出身の法学士は無試験で弁護士になることができた。足尾争議で逮捕された浅沼の弁護士をつとめたのも、東京帝大法学部出身の麻生(久)だった。
144:田所輝明『無産党十字街』社民、労農の党首である安部磯雄、大山郁夫と麻生を比較
「安部は牧師、大山は教師、麻生は親分。安部に敬服し、大山に感激し、麻生に惚れる。安部は信者と語り、大山はファンと踊り、麻生は子分と泣く」
148:麻生久
世を覆う愛国的風潮を逆手にとって、彼なりの革命を夢見る。
「陸軍パンフレット」承認←資本主義否定
158:戦前から戦後にかけての二度の「発狂」という地獄
「私が一番悩んだのは、戦争中は戦争に反対であったが、いやおうなしに、戦争の中に引き込まれた、その矛盾に悩みました。それから戦争が済んでですね、何といっても軍国的な生活を送ってきた者が、全然新しい社会に立つんですから、この煩悶がまた、人間的にはずいぶんありましたね。しかし、人間としてですね、悩みを持ちつつ生きるということは尊いものだと私は思っています。悩みがない人間というのは、ウソなんじゃないでしょうか。生き方にウソがあるんじゃないでしょうか」(近藤日出造との座談)
167:明治人として、天皇への敬愛の念を、社会主義者となったあとも捨てていなかった。彼の内部で、天皇と社会主義は少しも矛盾しなかったのだ。
195:日本にとって、社会党は共産党以上に危険であり、浅沼は野坂参三や宮本顕治より危険だ、というのが赤尾の信念だった。共産党も社会党もどちらも悪だ。しかし、共産党に対しては日本人の心情の奥に眠る根強いアレルギーがあるからむしろ安心できるが、社会党に対してはその本能的な拒絶の意識が欠けているだけ危ないのだ。しかも、社会党の顔ともいうべき浅沼は、人物が好く大衆に愛される特性を持っている。

