2021年05月15日

理研代議士



理研三代議士
小峰 柳多 (一橋大学→理化学興業→日本自由党)
神田 博(法政大学→内務省→理研軽金属工業→自由党→厚生大臣)

理研三代議士」と呼ばれる、理研とつながりの深い代議士が戦後3人誕生した。そのうちの代表格が、田中角栄である。

新潟から東京に出てきて、建築会社を始めた角栄は、その仕事ぶりを大河内に認められ、理研の一大拠点が新潟県柏崎にあったこともあり、理研関係の仕事を次々と受注していく。戦争末期に、東京近辺の工場は軍命令で疎開作業が行われた。このとき、王子神谷町にあるピストンリングの工場を朝鮮の大田に移設する工事いっさいを請け負ったのも、角栄が経営する田中土建であった。

この危険で困難な工事を果敢にこなし、大田で工事完成を急いでいる間に終戦になる。角栄はただちに大田から釜山にでて、早々に海防艦に乗せられて引き揚げてくる。成年男子は「根こそぎ招集」で皆兵隊にとられていたので、艦上は女子供ばかりであったという。

8月25日には東京に帰ると、幸運なことに飯田橋の田中土建は奇跡的に焼け残っていた。その後、進歩党から資金援助を頼まれて献金していた27歳の角栄は、戦後初めての総選挙に新潟からの立候補を進められ立候補するが、この時は候補者が乱立して次点にとどまる。

角栄が初めて国会議員となるのは、翌年行われたこの次の選挙だ。
335:28歳の代議士が誕生するには、翌年、2.1ゼネストの後行われた戦後二度目の総選挙で、新潟県一円に工場をはりめぐらしていた理研の影響力を利しての、柏崎工場長星野一也の全面的なバックアップによる、当選の日まで待たなければならなかった。


shikoku88 at 18:15コメント(0) |  | 政治 

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