2021年05月11日
大河内正敏
大正6年に発足した理研だが、初代所長の菊池大麗が就任後5か月で急逝してしまう。そもそも数学者であった菊池は理研の趣旨とあまり関係がなかったが、皇室から御下賜金を受けていたので、爵位を持ち貴族院議員であった菊池が担ぎ出されたようだ。
そこで、物理学者で東京帝国大学総長の山川健次郎に打診するが、兼職を嫌がったのか、固辞されてしまう。こうして、2代目所長は、やはり貴族院議員で土木学会の長老だった男爵・古市公威が就任する。
このころ、早くも理研は財政難に直面する。第一次世界大戦が終わり、不景気で、財界からの寄付金が集まらない一方、インフレが進行し、建築費が高騰する。さらに、財政難の中で、物理部と化学部の内紛が起こった。
大正10年(1921)、国庫補助金の増額要求が蹴られ、紛糾の末に、物理部長の長岡、ついで科学部長の池田があいついで辞表を提出。古市所長も健康不調で辞意を表明する。ここで、渋沢栄一副総裁がまたしても山川健次郎を担ぎ出そうとし、原敬首相までがのりだして説得するが、山川は再度固辞して受けなかったという。
そのとき、「自分の代わりに」と推薦したのが大河内正敏で、ようやく本書の主人公が登場する。理研は所長人事に窮しており、外部からの候補者はネタ切れだった。そこでやむおえず内部に目をつけて、研究員の中で爵位を持ち、貴族院議員であった大河内正敏が注目された。山川には、長岡半太郎、鈴木梅太郎らの長老研究員から推薦の口添えがあったようだ。
大河内正敏は、子爵。貴族院議員。工学博士。東京帝大工学部造兵学科教授で、当時43歳。専門は弾道学で、その研究に物理学を導入した功績が評価されている。
85:都合よく家が近いのである。帝大とは谷一つへだてた谷中清水町に2500坪の邸宅。東京では当時珍しかった「フィアット」を駆って大学との間を行ったり来たりする。86:知恵伊豆大河内の祖先は、家光を輔弼して徳川三百年の転嫁を盤石ならしめた「知恵伊豆」松平伊豆守信綱である。この松平家は元来が大河内姓で、最初川越城主であったが、のちに上州高崎と三河吉田と上総大多喜の三家に分かれ、維新後は大河内姓に復帰した。
