2020年08月23日

日本最大級の偽文書




学校教材や市町村史にも活用されてきた歴史資料が、後世の偽文書だった

しかも、それらはたった一人の人物によって創られたものだった。椿井政隆(1770-1837)が創り、近畿一円に流布し、現在も影響を与え続ける数百点にも及ぶ偽文書「椿井文書」。

ニーズがあればそれに応えようとする事業家?はいつの世にもいる。江戸時代後期に山城国相楽郡椿井村(現・京都府木津川市)に生まれた椿井政隆もその一人であったようだ。

江戸になって太平の世の中が続くと、実力主義ではなくなってくる。そうすると人が求めるのは「家柄」とか「由緒」といったちょっと自尊心をくすぐられ、自慢できる要因だ。あるいは、村同士の争いで、自らが有利になるような「歴史的証拠」を求める。こうしたニーズに抜群の技量で応えたのが椿井政隆だった。

こうした偽歴史文書は数多く、戦前から研究者の間では要注意とされてきた。ただ、歴史学の常として、偽文書自体が研究対象となることはなく、代々研究者の間で無視されてきたのだという。戦前は特に研究者は限られていたのでそれでよかったらしい。

長年研究者の間で無視されてきた椿井文書は、戦後、高度経済成長期に「復活」することになる。それを主導したのは、ベッドタウン化で新旧住民をつなぐ「地域の歴史」が欲しい地方自治体で、その片棒を担いだのは戦前から戦後の研究者の交代で、「偽文書注意」が引き継がれなかった若手歴史学者だった。

経済成長のおかげで進学率が高まり、研究者の数も大幅に増えたのはほとんどの学問で同じ。その分、競争も激しくなったため、研究分野を絞って、専門分野しかしらない研究者が増えてしまった。歴史学もしかりで、幅広く見ればすぐわかる矛盾に気づかず、偽文書を取り入れてしまったのだという。そして、一旦論文として受け入れられると、それが繰り返し引用されることになった。


4:歴史学の問題点を映す「鏡」
研究が蓄積されることで専門性は高まるが、その結果として分野ごとに個別分散化し、蛸壺的な研究になってしまいがちである。このような問題は、歴史学でもつとに指摘されている。(中略)すなわち、近世や近代にその地域で起こったことを気にしないまま、古代や中世を直視してしまう。あるいは、地域に残された文書群を見ることなく、古代や中世の活字資料だけに頼ってしまう。

12:椿井文書の特殊性
内容がバラエティに富んでいることである。本書では、椿井政隆が偽作したものを総称して椿井文書と呼ぶが、そのなかには差出人を偽装した偽文書だけでなく、由緒書や系図・絵図の類も多く含まれる。しかも椿井政隆は、同一人物による作ではないように見せかけるため、いくつかの筆跡を使い分けている。そのうえ、椿井文書は近江・山城・大和・河内の各地に大量に分散している。

192:戦後歴史学での忘却
戦後歴史学は、皇国史観に基づく歴史学からの脱却を目指して出発する。その動きが、京大においては西田直二郎の教職追放という形に帰結する。そのため、京大では彼の文化史学が継承されることはなかった。(中略)椿井文書について議論していた京大出身の若手研究者たちが、関西から離れてしまったのも不幸であった。

194:自治体史への採用
昭和40年ころから、全国各地の地方自治体において、自治体史の編集が活発に行われるようになる。不幸なことに、戦前から戦後にかけての研究者の世代交代によって、椿井文書の存在もほとんど忘却されたころに、各地で古文書の悉皆調査が始まるのである。そのため、この事業のなかで次々と再発見された椿井文書は、あまり警戒されることなく活用されてしまう。

216:椿井政隆の着眼点や椿井文書の作成手法
椿井政隆はあらゆるジャンルの史料を複雑に関係づけることで、偽文書に信憑性を帯びさせていたのであった。しかも、椿井政隆は村と村が対立しているところに出没し、論争を有利に導くような偽文書を作成することで村々の欲求に応えていた。

219:椿井文書は特殊事例か
椿井文書は、かなり大がかりな事例ではあるが、その供給量に見合うだけの需要が、当時の社会には存在したと想定することもできよう。(中略)近世にはたわいのないものまで含めると、偽文書は無数に存在する。



shikoku88 at 18:10コメント(0) |  | 教育 

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