2020年08月08日

感染症と文明

感染症と文明 共生への道 (岩波新書)
山本 太郎
岩波書店
2020-05-25


新型コロナ「感染者」が再び増加している。正確には、「PCR陽性者」判明数であって、「感染者」数でもなければ、もちろん、「発症者」数でもない。新型コロナウイルスは、「初期から中盤までは暴露力(体内に入り込む力)は強いが、伝染力と毒性は弱く、かかっても多くの場合は無症状か風邪の症状程度で終わるおとなしいウイルス」ということ。(国際医療福祉大学 高橋泰教授

では、なぜそれほど恐れられているかと言えば、1万〜2.5万人に一人という非常に低い確率ではあるが、サイトカイン・ストーム(免疫暴走)や血栓形成という状況を引き起こし、重篤化し、場合によっては死に至らしめるからだ。日本を始めアジア諸国は欧米の1/100ほどの死亡率(人口比)で済んでいる。どうやらそれは、自己免疫力の違いにあるというのが、高橋教授の「感染7段階モデル」。

急に世間からの注目を集めている感染症だが、これを機に、岩波新書で「感染症と文明」の歴史を俯瞰してみる。まず、感染症が発生する前提として、文明の発達がある。人類が狩猟採集を続けていれば、感染症は発生しなかった。感染症はヒトが野生動物を家畜化したときから始まっている。イヌあるいはウシに起源を持つウイルスが種を越えて感染し、適応した結果、ヒトの病気となったのだ。

さらに、農業が始まり、人類は初めて都市に住むようになった。感染症が社会に定着するためには、最低でも数十万人規模の人口が必要だという。それ以下の人口集団では、感染は単発的なものにとどまり、恒常的に流行することはない。数十万人規模という人口規模を持つ社会は、農耕が始まり文明が勃興することによってはじめて地上に出現した。


5:フェロー諸島の麻疹
1781年に流行して以来、1846年までの65年間、麻疹の大規模な流行はなかった。その間、一度も麻疹が持ち込まれなかったわけではなかろう。しかし、それが流行を引き起こすことはなかった。理由の一つに集団免疫の存在があったことは間違いない。

8:麻疹と人類史
 麻疹は、人類最初の文明が勃興した頃、イヌあるいはウシに起源を持つウイルスが種を越えて感染し、適応した結果、ヒトの病気となった。ヒトが野生動物を家畜化し、家畜化した動物との接触が感染適応機会の増大をもたらした。
 ティグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミア地方(肥沃な三日月地帯)が、麻疹誕生の地となった。理由は、この地が人類史上初めて麻疹の持続的流行を維持するに十分な人口を有したからにほかならない。
 麻疹が社会に定着するためには、最低でも数十万人規模の人口が必要だという。それ以下の人口集団では、感染は単発的なものにとどまり、恒常的に流行することはない。数十万人規模という人口規模を持つ社会は、農耕が始まり文明が勃興することによってはじめて地上に出現した。

10:紀元前3000年ごろメソポタミアに誕生した麻疹が、20世紀半ば、グリーンランドを最後についに「処女地」をなくす。麻疹が地球の隅々まで到達し定着するのに要した時間は、約5000年だった。

15:病原体の根絶は、マグマを溜め込んだ地殻が次に起こる爆発の瞬間を待つように、将来起こるであろう大きな悲劇の序章を準備するにすぎない。根絶は根本的な解決策とはなりえない。病原体との共生が必要だ。

55:中国初のペスト
2010年10月31日Nature Genetics論文
世界各地から収集した17株のペスト菌の遺伝子配列から、ペスト菌の共通祖先が中国に起源を持つ可能性が高いこと、その菌が「絹の道」を通してユーラシア大陸の西側にも達した可能性があること、さらに、中国明代に実施された鄭和の大航海もペスト拡大に寄与した可能性。

58:ユスティニアヌスのペスト
ペストは、542年から750年にかけて、首都コンスタンティノープルを繰り返し襲った。特に542年の流行は「ユスティニアヌスのペスト」と呼ばれ、最盛期には首都コンスタンティノープルだけで一日1万人以上が死亡したという。ペストは港から内陸へと広がり、地中海世界人口の1/4が死亡した。(中略)これが契機となって、東ローマ帝国は衰退し、以降、西アジアに本拠地を置くイスラム教徒が、地中海世界で活発に活動を開始することになる。

64:ボッカチオが描いたペスト
『デカメロン』は、1348年に流行したペストから逃れるために邸宅に引きこもった男3人、女7人の計10人が退屈しのぎにした小話を集めたという趣旨の物語である。10人がそれぞれ1日1話を語る全100話は、艶笑に満ちた恋愛話や失敗談からなる。人文主義文学の傑作とされているが、作品の背景には、ペストに喘ぐ当時の社会状況が色濃く反映されている。

113:1894年香港ペスト流行
国際調査団が組織され、現場に派遣された。そのなかに、一人の日本人と、一人のスイス生まれのフランス人がいた。名前を北里柴三郎とアレクサンドル・イェルサンといった。前者はコッホの弟子であり、後者はフランスの細菌学者パスツールの流れを汲む。
 北里は、香港に到着後、間を置かずペストの病原菌を発見し、その結果を「ペスト菌」として、イギリスの医学雑誌『ランセット』の1894年8月号に発表した。遅れて、イェルサンもペスト菌の発見を報告した。両者の違いは、ペスト菌がグラム染色によって陽性に染まるか染まらないかの違いであった。(中略)結果からいえば、イェルサンの報告が正しかった。



shikoku88 at 19:38│Comments(0) | 提言

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