2020年07月15日
イースター島に黄昏が訪れるとき
太平洋の孤島イースター島、といえばロマンチックに聞こえる。よく知られている通り、島には巨大なモアイ像が林立し、世界遺産に登録されている。実際のところ、すべてのモアイ像は引き倒されていたのだが、高松市にあるクレーンメーカー「タダノ」の協力で1988年から7年かけて15体のモアイ像が「アフ・トンガリキ」祭壇に建て直された。
それでは、なぜ、モアイ像は建てられ、そして引き倒されたのか?それが本章のテーマ。その背景には、文明による自然破壊があった。
もともと、イースター島に住み着いたのは、他の南太平洋の島々と同じく、東南アジアからやってきたポリネシア系民族だ。やがて文明が栄え、部族の守り神としてモアイ像を集落の周りに建てるようになる。これが、そのうち、より大きなモアイ像をより多く建てるよう競い合うようになる。
一方、建築のため、あるいは燃料にするために森林破壊が進む。近くに他の島のない絶海の孤島イースター島では、他の島から木材を取ってくることもできず、ついには、漁に使うカヌーも作れなくなり、食糧事情は悪化する。
食糧事情が悪化すると、部族間対立が激しくなり、相手のモアイ像を引き倒すことから始まり、やがては殺戮が始まる。こうして、18世紀にヨーロッパ人が訪れるようになるまでに、モアイ像を建てた文明はほぼ絶えていた。残っていた住民も、ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘の蔓延で激減している。
19世紀、ペルーがスペインから独立してからは、ペルー本土の鉱山などでの労働力として、残っていた3千人ほどの住民のうち半数の1500人が奴隷として連れ去られている。
とまぁ、踏んだり蹴ったりなのだ。元はと言えば、自分たちの文明を、自然破壊によって自ら葬ってしまったところから、民族の苦難は始まっている。かつて島を覆いつくしていた森が半分に減ったとき、このまま破壊が進めばどうなるかを考える人はいなかったのだろうか?いたとしても、その声が為政者に届くことはなかった。
巨石像は残ったものの、文明は滅びた。滅びた文明は、現代の我々にとって、良い教訓になる。
125:ラノ・ララクは、直径約550mの円形に近い噴火口で、その内部に至る細い通路が、外周の低地から急こう配で火口縁に上り、ふたたび急こう配で火口床の湿原沼へ下りている。現在、この付近に住む者はいない。噴火口の内外の壁には、397体の石像が散在している。耳が長く足のない男性の上半身を一様の手法で表したこの石像は、そのほとんどが約4.5mないし6mの高さを持つが、最大のものは20mを超え、重量は10tから最高270tにも及ぶ。144:1862年から63年にペルーの奴隷船が1500人の島民を拉致し、1836年には天然痘の蔓延が2件記録されていて、(中略)1770年以降定期的に島を訪れていたヨーロッパ人が持ち込んだ別の天然痘の蔓延があり、さらに、17世紀には人口の激減も始まっていた。171:倒されるモアイイースター島を総体的に描けば、太平洋における森林壊滅の最も極端な事例となり、世界的にも、かなり極端な部類に属する事例と言えるだろう。なにしろ、森林が丸ごと姿を消したうえ、全種の樹木が絶滅したのだ。その結果としてただちに島民に襲い掛かったのが、原料の欠乏、野生食料の欠乏、作物生産量の減少という事態だった。172:野生の食料源はほとんど失われた。航海用のカヌーが製造できないので、初めの数世紀は農民の主要な食肉だったネズミイルカが、マグロなどの外洋魚と同様、事実上貝塚に骨を残さなくなった。175:武官によるクーデターが起こった1680年ごろになると、士族同士の争いは、より大きな石像を建てることから、あらかじめ設置しておいた石板目がけて敵方の石像を引きずり落とし、破壊することへと変わっていった。こうして、(中略)イースター島の社会も、人口、重要建造物、環境への侵害がすべて最盛期に達した直後に崩壊する。178:黒人狩り1805年から始まり、1862-63最盛期イースター島史上最も苦難に満ちたこの時代には、20隻余りのペルー船がおよそ1500人(生存者の半分)の島民を連れ去り、競売にかけて、ペルーの鉱山における鳥糞石の採掘を始め、さまざまな雑役を強制した。拉致された島民たちのほとんどは、囚われた状態のまま命を落とした。

