2020年05月23日

「執念の勝負師」松崎キミ代

かつて、どん欲なまでの勝利への執着で、「執念の勝負師」と言われた卓球選手がいた。中学校で卓球を始め、香川県大会で優勝(シングルス)。高瀬高校ではインターハイでシングルス2位、ダブルス優勝の成績を修める。その後進学した専修大学卓球部では、全日本選手権で単、複とも優勝。社会人になってから出場した1963年の第27回世界選手権(プラハ)では、団体、単、複の全種目で優勝するという「世界の三冠王」を達成している。

その人は、松崎キミ代先輩。郷里の高瀬町出身者で一番の有名人と言っていいだろう。今もご健在で、私も理事を務める「関東三豊市ふるさと会」の会長だ。その松崎会長の伝記(発行者:高瀬高校同窓会)が出たのが昨年。著者は高瀬中学校・丸亀高校・早稲田大学と私にとって「先輩の三冠」である安藤一正先輩。

安藤先輩は日経新聞の北京特派員をしていて周恩来総理の姪と親しくなり、同じく、周恩来総理と親しく、その姪とも交流のあった松崎さんと縁があった。それ以外にも、同じ町内の地縁で父子にわたり繋がりがある。ついでに言えば、私の麻小学校の3−4年生の担任が安藤先輩のお母さんで、安藤先生には卒業後も折に触れて気にかけていただき、私も帰省すれば家族で訪問していた。

本書は松崎先輩の偉大な足跡を顕したものだが、松崎選手の誕生にいかに「恩師」の存在が大きかったかが印象的。まずは、中学校で卓球をやることに両親から反対される。戦後も間もない頃で(昭和26年)、放課後は家の手伝いをするのが当たり前の時代だ。家は売り酒屋で、配達もある。

卓球部には入ったものの、父親の反対で練習には行けない。卓球が認められたのは、森先生がソフトボール大会に出場した松崎の素質を見抜いて、家庭訪問で説得してくれたからだった。しかも、森先生は2年生になっていた松崎に「卒業するまでに県で優勝できる」と言い切ったという。実際、翌年香川県大会でシングルス優勝している。

学習塾もなく、親に学士もおらず、教師が地域で唯一のインテリとして何にもまして尊敬されていた時代の話。戦前、高等教育を受けるには、余程家が財産に恵まれていない限り、教育費免除の士官学校か師範学校に行くしかなかった。

進学率





















11:第一の恩師
当日、夜遅くなり店を閉めたところに森先生が現れた。奥の部屋で一時間以上、両親と話し込んだ森先生が帰り際に告げた。「お父さんとお母さん、許してくれたぞ。がんばれよ!」

13:県立高瀬高校
開講して4年の新設高校には、中学と同じく体育館がなかった。放課後、教室の机といすを両側に片付けスペースを作って卓球台を据える手間は、まだ我慢できる。しかし、相変わらずあまりに狭い。「狭いから音が大きく響きスピードがあるように錯覚してしまう。実際に体育館の試合会場で打つとふわふわ玉と気づく」

20:1954年当時、大学進学率は7.9%で、女子に限ればわずか2.4%。ましてや「片田舎の高瀬で小さな売り酒屋を営み、6人姉妹を抱える」松崎家である。あまりに現実感がない。


shikoku88 at 18:38コメント(0) |  | 教育 

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