2020年05月02日
記憶の戦争
東アジアの歴史認識問題は、韓国や中国の経済発展とともに起こった。戦争が記憶に新しい戦後には問題にならず、経済発展著しい1980年代になって急に提起されるようになる。
それがなぜかはともかく、「ヨーロッパでは歴史・記憶の共有と和解が進んでいるように考えられている。しかし、ヨーロッパを中東欧やロシアまでを含む全体として捉えると、そこには『記憶の戦争』と呼ばれるほどの激しさを伴う歴史観の亀裂と分断が見られる。EUとロシアの境界に位置し、複雑な記憶が幾重にも交錯するバルト諸国の状況を通じて、ヨーロッパにおける歴史認識の抗争を見る」という本。
話は「ブロンズの夜」から始まる。日本人にはあまりなじみのないエストニア(IT先進国で有名)の首都タリンで2007年4月に起こった、ロシア系住民と警察特殊部隊との間の騒乱だ。暴徒による周辺商店の略奪、1名死亡、警官側も含めて150名の負傷者を出した。
きっかけは、第二次世界大戦期にエストニア領内で亡くなったソ連赤軍の戦没兵士を追悼・顕彰する「ブロンズの兵士」像の移転を決めた政府方針で、それまで市の中心部にあった像を郊外の軍人墓地内に移転しようとした。これにロシア系住民が反発、上記の事態となった。
背景には、1944年の赤軍によるエストニア「解放」を、「ソ連による再占領」と見なすエストニア国民感情がある。実際に、赤軍がエストニアに進撃した過程では、20万人のエストニア人がナチス武装親衛隊に加わって赤軍と戦っている。エストニアが陥落すると、ある者は撤退するドイツ軍と一緒にドイツに渡り、ある者は小舟でバルト海を渡ってスウェーデンに亡命した。エストニア人部隊は最後のベルリン防衛戦にまで参加している。
激しい戦いの後の「再ソヴィエト化」はエストニア人にとって厳しいものとなった。赤軍の進行が進んだ44年夏以降、対独協力者の逮捕や殺害が始まった。「富農」「無法者」「ナショナリスト」と見なされた数十万人がシベリア送りになる。戦時中に死亡あるいは難民や強制追放によって人口の1/3が失われたといわれる。労働力不足を補うため、内地からロシア人その他のソヴィエト諸民族が流入した。
この状態はソ連が崩壊する1991年まで続いた。ソ連からの独立を回復したエストニアは、ロシア系住民は「不法な占領者」として国籍を与えなかった。それ以降、二流市民扱いされることになる。この不満が爆発したのが「ブロンズの夜」だったのだ。
エストニアの例に見られるように、戦後、勝者によって書かれた歴史が全てではない。歴史は解釈次第なので、歴史認識が完全に合致することはこれまでもなかったし、これからもないだろう。以前、独仏間で高校の合同歴史教科書が作られたことが話題になったが、結局、両国の高校で採用されることはなかったそうだ。
互いに固執せず、未来志向でやっていくというのが大人の知恵だろう。
1:エストニアの首都タリンの旧市街からほど近い街の中心部で、2007年4月26日夕刻から28日未明にかけて「ブロンズの夜」と呼ばれるかつてない騒乱状態が発生。きっかけは、第二次世界大戦期にエストニア領内で亡くなったソ連赤軍の戦没兵士を追悼・顕彰する「ブロンズの兵士」像の移転を決めた政府方針。5:赤軍がエストニアからナチを放逐した1944年をファシズムからの「解放」ではなく、二つの全体主義による継起的な三度目の「占領」の始まりとして捉えるのが、独立回復以降のエストニアで広く受け入れられた公式歴史像。三度目というのは、両大戦間期に実現された20年ほどの独立の後、まずは1940年のソ連による併合、次いで翌年の独ソ戦開始直後からのナチ・ドイツによる支配、そしてソ連赤軍による「解放」をいずれも全体主義による「占領」と見なしているから。7:ロシア語系住民の多くは、ソ連時代に享受していた優位な立場を否定されて不法な占領者扱いされただけでなく、独立回復時の国民の確定に際して国籍も認められなかった。8:EU・NATO加盟に先立つ2002年ナチ・ドイツ側で闘ったエストニア人兵士の記念碑建立「ボリシェヴィズムに対抗し、エストニアの独立回復のために1940−45年に闘ったすべてのエストニアの人々のために」戦時期のエストニアにはナチの武装親衛隊員として先頭に加わった人々がいた。15:ロシアからの非難や攻撃とは対照的に、ポーランドではエストニア政府を支持ポーランド国内に多数ある赤軍記念碑の撤去法案を準備。53:バルト三国はそのすべてがホロコーストの舞台首都ヴィリニュスが「北のエルサレム」と呼ばれたように、近世以来ユダヤ人が多数暮らしたリトアニアと、東部や南部にユダヤ人コミュニティを有したラトヴィアはもとより、19世紀後半までほとんどユダヤ人の姿を見かけることのなかったエストニアにも、ゲットーや強制収容所が設けられた。56:再ソヴィエト化赤軍の進行が進んだ44年夏以降、対独協力者の逮捕や殺害が始まった。(中略)「富農」「無法者」「ナショナリスト」と見なされた数十万人がシベリア送りに。1949年3月25日には一夜にして10万人が追放され、その2/3は女性と子供だった。57:森の兄弟すでに1940年の併合時に始まっていた反ソ抵抗運動も、粘り強く継続された。武装抵抗運動がもっとも組織的かつ強固に展開され、それゆえ弾圧犠牲者も最多だったのはリトアニアだが、他の二国でも幾多の小グループによる武装抵抗活動が50年代まで繰り広げられた。これらの抵抗運動は、森林に逃げ込んで身を隠した人々によって組織されたことから、「森の兄弟」と称され、森林と沼沢地を拠点としたゲリラ活動を行った。(中略)この運動に参加した人々の中に対ナチ協力者が少なからず含まれた。185:ナロチニツカヤ『第二次世界大戦の総譜』日本を含む東アジア各国の研究者も執筆陣に迎えて、「東方」における第二次世界大戦の諸相を論じた国際論文集。日本による「千島諸島への権利要求」が端的に示す通り、日本が戦後国際秩序の前提である「第二次世界大戦の帰結」を「認めていない」。「北方領土」返還要求は、それ自体が第二次世界大戦の帰結を受け入れない、歴史的正当性を書いたものだと見なされている。

