2020年03月03日
積極一貫
1988年に発行された中村天風の講演集。定価はなんと9800円だ。昭和34年から昭和43年にかけての講演録音からテープ起こししたもの。その分、内容の繰り返しが多く、冗長ではあるが、冗談も織り交ぜ、天風の息遣いが分かる。
昭和43年(1968)に亡くなった天風を知る人は少なくなったと思うが、戦前から戦後にかけ、皇族から大臣、事業家、人間国宝、オリンピックメダリストまで、「天風会(現・中村天風財団)」会員として薫陶を受けた著名人が多数いる。原敬(元首相)、東郷平八郎(元帥)、山本五十六(元帥)、浅野総一郎(浅野セメント創業者)、西武一(オリンピック馬術金メダリスト)などが含まれる。
名門の家に生まれたが、手に負えない乱暴者で、修猷館(福岡)在学中の16歳の時に喧嘩で相手を刺殺して退学している(正当防衛で無罪)。親族で農商務省次官をしていた前田正名男爵の紹介で、玄洋社の遠山満に預けられた。その気性の激しさからついた渾名は「玄洋社の豹」。
この時、陸軍中佐で軍事探偵(スパイ)の河野金吉に付いて日清開戦前の満州及び遼東半島の偵察、調査に従っている。約1年の偵察行動の間に中国語を習得したというから、頭脳明晰であったのは間違いない。英語は幼少のとき、家に出入りしていた英国人夫妻に遊んでもらっているうち自然と覚えたという。
1902年、26歳の時に、参謀本部諜報部員として採用され、特殊訓練を受けたのち、満州に潜入。日露開戦前の情報収集と後方攪乱を工作している。3年後に帰国するが、選抜された軍事探偵113名のうち、帰還したのはわずか9名だった。致死率93%。
翌年肺結核になり、当時、結核の最高権威であった北里博士からも見放されている。治療法を求め、医学、宗教、哲学、心理学の書を読み漁る。事態は好転せず、「座して死を待つよりも」と救いの道を求め、世界旅行。その間に、コロンビア大学医学部に留学していた中国人の「替え玉」となって授業に出席、試験もクリアして、医学部を「卒業」する荒業で旅費を工面している。
2年間の遊学の間、各界の最高権威に直接会って教えを乞うが、欧米で得るものなし。諦めて帰郷の途上、カイロのホテルで偶然会ったのがヨガのカリアッパ大聖人。同師に連れられて、ヒマラヤ山脈カンチェンジュンガ山麓のゴーグ村で2年余り修行。日本人初のヨガ直伝者になっている。
2年間の欧米遊学と2年間のヒマラヤでのヨガ修行ののち、1913年(大正2年)4年ぶりに帰国の途に就くが、その途中、上海で竹馬の友である山座圓次郎中国大使に会う。同氏の要請で第二次辛亥革命に参加。最高政務顧問として孫文を助けたものの、2か月にして革命が挫折。帰国後は、「東京実業貯蔵銀行頭取をはじめ、いくつかの会社を経営し、実業界で大いに活躍」(略年譜)とある。
恩人ともいえるカリアッパ大聖人。さぞや世界的な有名人かと思ったのだが、ウェブ上にはほとんど情報がない。どれも中村天風の本からの引用で、カリアッパ大聖人本人に関する著述が見当たらない。意図的に出さないようにしているという書き込みもあるが、果たしてどうか。
