2019年04月24日

人道に対する罪




次いで、ニュルンベルク裁判で「人道に対する罪」を提唱し、世界で初めて国家の指導者の個人的責任を問う理論的支柱となったハーシュ・ラウターパクト。彼の家と、筆者の祖母の家はポーランドの田舎町の同じ通りにあったことは筆者の調査で初めて分かった。

ラウターパクトはルヴフ大学法学部に進学、博士号を取得する。そして、彼にとって幸運だったことに、母校で教員に応募するが落とされる。そこで、彼はLSEに留学を決め、そこでまた博士号を取得する。イギリスに渡っていたことで、彼はポーランド分割による混乱と、その後のナチス支配によるユダヤ人迫害をまぬがれた。

一族で生き残ったのは彼と、2年間床下に匿われて生き延びた姪っ子だけだった。彼は、この姪っ子を戦後ケンブリッジに呼び寄せる。

134:彼(ラウターパクト)はLSEに入学し、彼女(妻レイチェル)は王立音楽大学に入学する。LSEで彼はアーノルド・マクネアの指導を受けて勉強した。国際法の講師をしていたマクネアは、スコットランドの知的名門一家の出身だった。法哲学とか法理論にはあまり興味を持たぬ非常に実際的な男で、彼はラウダーパクトに、判例と実務に重きを置くアングロサクソン流のやり方を紹介した。

137:彼の仕事のきっかけとなったのが、ヴェルサイユ条約が生み出した最初の国際裁判所の創設である。ハーグを所在地とする常設国際司法裁判所は1922年に業務を開始し、国家間の紛争解決をめざした。そこで適用される国際法の法源のなかに「文明国によって認められた法の一般原則」がある。この一般原則は国内法体系のなかに見いだせるものだから、国際法はすでに確立した国内法の規則を活用すればいい。ラウダーパクトは、こうした国内法と国際法のリンクが国際法規則の進化に「画期的な」可能性をもたらし、一般的に「永遠かつ不可譲」と見なされている国家権力に今よりも制限を課すことができると気づいたのである。

139:1935年ニュルンベルク法
アーリア人種の純潔を守るため、ユダヤ人とドイツ人とのあいだの性交渉や結婚が禁じられる。ユダヤ人は国籍とほとんどの権利を剥奪され、弁護士、医者、ジャーナリストの職業に就くことを禁じられる。

143:1937年末ラウダーパクトケンブリッジ大学の国際法教授に主任
Trinity College Fellow

173:ジェノサイドに対してラウダーパクトは冷淡
「理論の穴、牽強付会、潜在的危険」にみちており、個人の人権保護からは「後退」してしまう。(オッペンハイム『国際法』第7版)

177:ラウターパクトがジャクソンにアドバイス
ソ連とアメリカの意見が割れているポイントでもあり、かつ個人的に彼が胸に秘めていた憂慮の元でもある文民に対する残虐行為に対処するために、国際法に新用語を導入してはどうか?彼は真剣になって説いた。個々の文民に対する残虐行為を「人道に対する罪」と呼んではどうか?


shikoku88 at 23:30コメント(0) |  | 教育 

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