2018年12月23日
先人に学ぶ防災
「すべての真の歴史は現代史である」
との言葉を残したイタリア人歴史哲学者のベネディット・クローチェは、1883年のイスキア地震で家族全員が崩壊した建物の生き埋めになり、両親と妹を亡くしている。残された兄弟は伯父に引き取られて育てられたそうだ。
「人間は現代を生きるために過去をみる。すべて歴史は現代人が現代の目で過去を見て書いた現代の反映物だから、すべての歴史は現代史の一部と言える。歴史はその時代の精神を表現したもの、生きる人間のものである」
地震で家族を亡くしていなければ、こうした考えは出てこなかったかもしれない。同様に、天災は歴史にさまざまな影響を与えてきた。天正地震(1585)と伏見地震(1596)がなければ、秀吉の天下が続いていた可能性が高いという。
まず、天正地震がなければ、徳川家康は二か月後に豊臣秀吉の大軍の総攻撃をうけるはずだった。兵力は秀吉のほうが圧倒的に優勢で、家康は「滅亡」も覚悟していたという。それが、地震の影響で総攻撃は中止され、家康は生き残り、力を蓄えた。
伏見地震では、完成したばかりの伏見城が全壊し、明との交渉のため国中から城に集められていた美人500人が下敷きになって死亡している。秀吉は、以前にもまして豪華な城を再建しようとしたうえ、せっかく明との講和がまとまりかけたのに朝鮮に再出兵するといいだした。度重なる普請での負担と、朝鮮出兵で不満を募らせていた大名はこれに呆れた。こうして、豊臣政権崩壊の流れができた。
地震で家族を亡くしていなければ、こうした考えは出てこなかったかもしれない。同様に、天災は歴史にさまざまな影響を与えてきた。天正地震(1585)と伏見地震(1596)がなければ、秀吉の天下が続いていた可能性が高いという。
まず、天正地震がなければ、徳川家康は二か月後に豊臣秀吉の大軍の総攻撃をうけるはずだった。兵力は秀吉のほうが圧倒的に優勢で、家康は「滅亡」も覚悟していたという。それが、地震の影響で総攻撃は中止され、家康は生き残り、力を蓄えた。
伏見地震では、完成したばかりの伏見城が全壊し、明との交渉のため国中から城に集められていた美人500人が下敷きになって死亡している。秀吉は、以前にもまして豪華な城を再建しようとしたうえ、せっかく明との講和がまとまりかけたのに朝鮮に再出兵するといいだした。度重なる普請での負担と、朝鮮出兵で不満を募らせていた大名はこれに呆れた。こうして、豊臣政権崩壊の流れができた。
第1章 秀吉と二つの地震10:天正地震は近世日本の政治構造を決めた潮目の大地震(1585)この地震が起きなければ、徳川家康は二か月後に豊臣秀吉の大軍の総攻撃をうけるはずであった。兵力は秀吉のほうが圧倒的に優勢。(中略)家康は「滅亡」の可能性さえ視野にあった。13:秀吉は徳川征伐の進発期日を「正月15日」と決めていた「地震が起こった当初、関白はかつて明智のものであった近江の湖のほとりの坂本の城にいた。だが彼は、その時に手掛けていたいっさいを放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大坂へ避難した」(宣教師フロイス)32:豊臣政権崩壊の引き金は伏見地震(1596)地震後、せっかく明との講和がまとまりかけたのに朝鮮に再出兵するといいだした秀吉に人々はあきれた。第2章 宝永地震が招いた津波と富士山噴火39:富士山は噴火するのか最後の大々的な噴火は1707年。旧暦10月4日に宝永地震がおきて激震と大津波が太平洋岸を襲い、その直後、11月23日に富士山が噴火。44:富士山が噴火する時は5年前から軽い地震が増え、二ヵ月前から富士山中だけの火山性地震が毎日続く。46:『日本書紀』から現代までに、これまで9回の南海トラフ地震最近、南海トラフが動いたのは1944年(昭和東南海地震)と1946年(昭和南海地震)。南海トラフは90年内に2回起きたことはない。
