2018年12月10日
第3章 新プラトン主義に敗れたメディチ家
ルネサンス期のフィレンツェで、イタリア随一の資産家として君臨したメディチ家。その富を支えたのはヨーロッパ全土をカバーする銀行網だった。
前章で見たように、フィレンツでは複式簿記が確立され、それを重視する文化があった。メディチ家に限らずフィレンツの商家では代々商売の基礎として複式簿記を教えた。フィレンツェでは、「会計のゆたかな伝統を育てるべく、商業と簿記に関する法律を定めていた」という。
歴史を振り返れば、いったん高みに達した技術や文化が、衰える例はたくさんある。15世紀のフィレンツは、ヨーロッパ一豊かになったためか、プラトン研究が盛んになり、プラトンやプロティノスの著書がラテン語に翻訳された。そうした中、メディチ家当主のコジモは、息子たち全員には会計を教えなかった。
「コジモには嫡出の息子が二人いた。長男のピエロは、経営のセンスはあったが商人としての修行に出されなかった。ピエロは人文主義的な教育を受け、ラテン語やギリシャ語の修辞学を学ぶ。コジモは長男が共和国の統治に携わることを期待したのだった。一方、次男のジョヴァンニには商売をみっちり仕込んだ。彼は銀行の跡継ぎになることが期待され、父と同じく帳簿の付け方から監査の仕方まで学ぶ。しかしジョヴァンニは享楽的なタイプで、帳簿の付け方は知っていても、厳格に帳簿を維持する几帳面さや規律に欠けていた。そのうえ彼は42歳の若さで1463年に世を去ってしまう。(中略)メディチ銀行はトップはいても実務家がおらず、最終監査の出来るものもいないという事態になった。そして監査なしでは、銀行は機能しない」
こうして、複式簿記を学ばせなかったために、メディチ家のみならず、フィレンツそのものの弱体化につながる。
前章で見たように、フィレンツでは複式簿記が確立され、それを重視する文化があった。メディチ家に限らずフィレンツの商家では代々商売の基礎として複式簿記を教えた。フィレンツェでは、「会計のゆたかな伝統を育てるべく、商業と簿記に関する法律を定めていた」という。
歴史を振り返れば、いったん高みに達した技術や文化が、衰える例はたくさんある。15世紀のフィレンツは、ヨーロッパ一豊かになったためか、プラトン研究が盛んになり、プラトンやプロティノスの著書がラテン語に翻訳された。そうした中、メディチ家当主のコジモは、息子たち全員には会計を教えなかった。
「コジモには嫡出の息子が二人いた。長男のピエロは、経営のセンスはあったが商人としての修行に出されなかった。ピエロは人文主義的な教育を受け、ラテン語やギリシャ語の修辞学を学ぶ。コジモは長男が共和国の統治に携わることを期待したのだった。一方、次男のジョヴァンニには商売をみっちり仕込んだ。彼は銀行の跡継ぎになることが期待され、父と同じく帳簿の付け方から監査の仕方まで学ぶ。しかしジョヴァンニは享楽的なタイプで、帳簿の付け方は知っていても、厳格に帳簿を維持する几帳面さや規律に欠けていた。そのうえ彼は42歳の若さで1463年に世を去ってしまう。(中略)メディチ銀行はトップはいても実務家がおらず、最終監査の出来るものもいないという事態になった。そして監査なしでは、銀行は機能しない」
こうして、複式簿記を学ばせなかったために、メディチ家のみならず、フィレンツそのものの弱体化につながる。
80:銀行経営に必須だった複式簿記商業教育の基本は簿記であり、コジモのようにゆくゆくは経営者になるエリートは若いうちに修得していた。家族経営の事業では、若い後継者は系列の店や外国の支店で実地に学ぶ。簿記は、経験を通じてしか身につかない。そこでフィレンツェでは、会計のゆたかな伝統を育てるべく、商業と簿記に関する法律を定めていた。このように会計は、文化と法律の両方に根付いていたのである。88:後の世代に受け継がれなかった会計文化コジモは息子たちの将来に野望を抱くようになった。(中略)おそらくは新プラトン主義に染まりすぎたせいで、あるいは自分の家系を王族のようにみなす驕りから、あるいは非現実的な自信過剰から、彼は息子たち全員には会計を教えなかった。この判断はメディチ銀行のみならず、フィレンツェそのものの弱体化につながっていくことになる。105:なぜ世界初の複式簿記の教科書は無視されたのか複式簿記についての世界最初の教科書というべき『算術、幾何、比及び比例全書』(スマム)が印刷された1494年という年は、皮肉にも、ヨーロッパにおけるイタリアの力が衰退し始めた時期だった。(中略)『スマム』を書いたのはフランチェスコ会修道士にして人文主義者、数学者のルカ・パチョーリ(1445-1517)で、同書の第一部第9編「記録および計算について」で簿記が取り上げられている。複式簿記はこれより200年前から既に存在していたが、その実際的な方法論が、印刷技術の普及と相俟って比較的入手しやすい形で世に出たのは、初めてのことである。しかしこの世界初の会計の入門書は、その後100年にわたって商人からも思想家からも無視された。16世紀に入ると、多くの国が騎士道精神を掲げる絶対君主を戴くようになり、会計は身分の低い商人の技術であるとして次第にさげすまれるようになっていったためである。
