2018年08月23日
近代日本をつくった長州五傑
「幕末、先進技術を取得すべくイギリスに留学した若き長州藩士たちがいた。伊藤博文、井上薫、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の五人である。出発点を同じくしながら、やがて有力政治家となった伊藤・井上薫と、官僚人生を全うした他の三人。その運命を分けたものは何だったのか。高度な専門知識により工業・鉄道・造幣の分野で活躍した山尾・井上勝・遠藤の足跡を軸に、近代国家形成期に技術官僚が果たした役割を明らかにする。」
というのが本書の主旨。伊藤博文、井上薫は明治の政治家として有名だが、2人に比べると他の3名の知名度は格段に低い。3名は技術官僚となって、近代日本建設にまい進した。
山尾庸三は、工部省を設立し、同省全体を統括した。後に、工部大学校の創設を通じて次世代技術官僚の育成に貢献した。東大工学部の前身である。「工学の父」
井上勝は、留学成果を活かして鉱山と鉄道を担当し、数年で鉄道に専念する。大阪に工技生育成所を設置して、鉄道技術者の育成もする。日本「鉄道の父」として知られる。
遠藤謹助は、御雇外国人と共に造幣事業を開始。明治8年(1875)には大部分において彼らから自立して専門性が深まり、同14年の造幣局へ復帰し、技監に就任して造幣事業を全うした。「造幣の父」
そして、もちろん、伊藤博文は「内閣の父」で、井上薫は「外交の父」。彼らが留学していたロンドン大学UCLには、Choshu Fiveの顕彰碑がある。そのことを知った地元が、後から2003年に山口に「長州五傑」の顕彰碑を建てたというのも面白い。
そして、もちろん、伊藤博文は「内閣の父」で、井上薫は「外交の父」。彼らが留学していたロンドン大学UCLには、Choshu Fiveの顕彰碑がある。そのことを知った地元が、後から2003年に山口に「長州五傑」の顕彰碑を建てたというのも面白い。

21:長州五傑の誕生百姓や足軽であれ、藩重心配下の村役人であれ、普通ならば藩政に関わることのできない立場であり、両者がイギリスへ留学することなど想像もし得ない家の出身であったことは間違いない。その彼らが、大組出身の三名と共に密航を成し遂げることができたのは、当人たちの能力や努力もさることながら、何より同藩、そして日本をめぐる激動の時代状況による部分が大きかった。37:ロンドンでの留学生活と専門性ロンドンでは、ジャーディン・マセソン商会支配人ヒュー・マセソンが彼らの世話をし、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで化学を担当するウィリアムソン教授を紹介した。彼もまた熱心に5名の面倒を見た。彼らは、まず英語の勉強から始めなければならなかったが、時間の経過と共にその習得は進み、現地の新聞にも目を通すようになって、銀行や工場なども見学していた。伊藤も、日曜日などに天文台や大砲製造所、軍艦製造所など大きな施設の見学に連れて行ってもらっていたと回顧している。43:長州五傑は1863年9月に同時にイギリスへ渡ったが、帰国時期は大きく分かれる伊藤と井上薫が、他の3名に対してロンドンに残って、当初の目的を達するよう説得して、帰国が決まった。三者を説き伏せ五名全体の決定を主導したという点でも政治家的な才覚は十分に見て取れる。既に幕末の段階からこの両者には色濃く政治家としての資質が備わっていた。逆に残った三名は説得を受け入れ、知識や技術を身につけるという藩から命ぜられた任務を遂行することに重点を置いた以上、官僚的な側面が強かったこともまた指摘できる。147:明治7年(1874)以降の軍事重視による他部門の予算削減まず鉄道寮に迫られたのは、御雇外国人を解雇していくことであった。鉄道政策を支えてきた彼らの功績は大きいが、それ以上に彼らの給与は高かった。太政大臣の月給が800円の時代に、鉄道差配役カーギルは2000円、建設師長ボイルは1250円と、それを上回る額が支給され、400円クラスも複数雇われており、削減の対象に挙がったのである。鉄道寮としても対応せざるを得ず、明治10年(1877)にかけて相当数が解雇されていった。前述の造幣局キンドル、富岡製糸場のブリューナも解雇されるなど、財政状況を踏まえた全体の傾向でもあった。

