2018年08月02日
先見力:保科正之
江戸城には天守閣がない。「明暦の大火(1657)で焼失し、その後再建されなかった」ということは知っていたが、その決断をしたのは保科正之だったという。1611年に二代将軍・秀忠の庶子として生まれ、家康の孫にあたる。庶子であったことから養子に出され、信濃高遠藩主・保科正光の子に。高遠藩主、山形藩主を経て、初代・会津藩主に。三代将軍家光の要請で、江戸で幕政に参画するようになり、家光逝去後は四代将軍家綱の輔弼役。
明暦の大火で焼失した江戸城の天守をすぐに再建する計画が持ち上がった。幕藩体制は安定期を迎え、徳川の権力は頂点にあったのだから、当然だろう。だが、保科正之はそれを中止させた。もう徳川に反抗する者はなく、要塞としての城はもういらない。今後は「戦わない」世の中にするというキャンペーンの象徴にしたのだ。
そして、それで浮いた資金を、防災を軸とした江戸の町づくりに充てる。明暦の大火では当時の江戸の町の6割が焼失し、人口30万人の1/3にあたる10万人が亡くなっている。それまでの江戸の町は軍事目的で作られた構造を残しており、道が入り組んで迷路のようになっていた。それで多くの人が逃げ道を失い焼死した。また、同様の目的から、地図も流布させてなかった。住民は自分の生活区域以外の地理を知らなかった。
それで、保科正之は、防火帯として「広小路」を整備したり、主要道路の道幅を大幅に広げ火災が広がらないようにする。隅田川を挟んで人々が逃げられるように両国橋を架ける。これらの措置で、それ以降、江戸時代を通じて、人口は10倍になったにも拘わらず、10万人以上の死者を出す災害はついに起こらなかった。次に10万人を超える犠牲者が出るのは、大正時代の関東大震災で(さらに、その次は昭和20年の東京大空襲)、いかに保科正之が採った江戸再建計画が有効であったかがわかる。
まさに、江戸幕府260年の安寧をもたらした「パックス・トクガワーナ」の立役者。

173:保科正之は後に続く横井小楠と同じく新しい社会のグランドデザインをした人物・リーダーよりも重要なのが社会のビジョンを次代に合わせて描ける人間・「江戸時代はこんな社会で行きます」というビジョンを描き、具現化し、それを200年以上持続させた・保科の作った社会の形が時代とそこに暮らす人々のニーズに合っていた174:260年の安寧をもたらした「戦わない」社会通念・明暦の大火で日本一の高さ45mの五層の天守が焼失・再建計画にストップをかけたのが保科正之・「もう戦わない」世の中にするという象徴176:江戸再建計画「災害に強い街づくり」・焦土を利用して、木挽町、赤坂、牛込、小石川の沼地を埋め立てる・火除け空き地として上野広小路の設置、防火堤の設置・主要道路の道幅を6間(10.9m)から10間(19.2m)に拡張・両国橋の架橋、神田川の拡張

