2018年07月15日

欧米の捕鯨船で栄えた緑の島



世界自然遺産に日本で四番目に登録された小笠原諸島。実は、戦後長らくアメリカが統治し、1968年に返還されてから今年は50周年。その記念に、本書を読んでみる。

まず、160年余り前まで無人島だったという事実。そのため小笠原諸島には他では見られない貴重な動植物が生育し、「東洋のガラパゴス諸島」とも呼ばれる。記録に残る最初の発見は、寛文10年(1670)の遠州灘で遭難した1隻のミカン船によるもの。阿波国海部郡浅川浦の船で、前年の11月15日に紀州の宮崎でミカンを積み込み、江戸へ向かっていた。この船が2月20日(太陽暦4月9日)に漂着したのが母島だった。

しかし、江戸時代末ごろに最初に住み始めたのは、欧米人やハワイ人だった。欧米の捕鯨船が水や食料の補給のため寄港したのである。つまり、一つ間違えれば、アメリカ領やイギリス領になっていた可能性もあった。

「英国は、アヘン戦争を前に中国滞在同胞避難所として占領を画策、米国は、ペリーが浦賀来航直前に父島に寄港し貯炭所用地を買収していた。開国後、島の重要性に気づいた幕府は、小笠原回収に外国奉行水野忠徳一行を派遣した」

この英米相手の外交が見もの。幕府の外交が、長い鎖国にもかかわらず、なかなかのものであったことが分かる。

MM











































65:1840アヘン戦争
南京条約が締結されて、もはや英国商人たちは清国官憲を恐れる必要がなくなった。また、広東に近い香港島が英国に割譲された結果、英国は極東における重要な拠点を手に入れることになった。こうして英清関係が逆転すると、英国の小笠原諸島に対する関心も急速に薄れ、つい数年前まで広東やマカオの英国人たちから注目されていたボニン諸島占領問題は、いつの間にか忘れ去られていったのであった。

120:小笠原回収
無人島回収にあたって幕府が最も懸念したのは、外国からの干渉であった。なかでもその成否の鍵を握ると考えられたのは、1827年におけるビーチー艦長の領有宣言という実績を持つ英国の動向であった。
 幕府の通告に対し英国公使オールコックは、水野らが咸臨丸で現地へ渡航した後の文久2年2月12日、安藤対馬守邸における会食の際、初めて英国の意向を明らかにし、三日後これを文章にして通告してきた。

121:英国公使オールコックの書簡
・ビーチー艦長の領有宣言にあまりこだわっていない
・むしろイギリスの事跡をアメリカ、ロシアのそれと同等とみなし、いずれも不完全であるとしている
・ビーチー艦長の領有宣言が英国政府によって正式に承認されていなかった
*幕府は小笠原回収を英国公使に通告。英国側からの反論はなし。当時の緊密な日英関係という背景。

136:文久元年12月4日(1862年1月3日)外国奉行水野忠徳を長とする小笠原島回収団の一行が咸臨丸で品川沖を出帆
・寛文10年(1670)のミカン船の漂着以来192年ぶり
・中浜万次郎も通弁として乗船
・前年に太平洋を横断した経験者は艦長の小野友五郎(当時測量方)と松岡磐吉の二人、それに水夫50名中11名のみ。幕府の洋式船が年々増える中で、航米経験者もそれぞれ他の船に移った?

215:治外法権
父島には咸臨丸が帰航した後も、小花作之助を長とする幕府の役人が駐在しており、港は以前と変わらず外国船が自由に出入りしていた。疫病のため下船を許されて滞在するもの、船内の過酷な使役を逃れて島内へ逃げ込む水夫、また、便船を得て島外へ去るものなど、常に外国人の往来があった。島庁もあえてこれに干渉せず、税関もない自由港であった。したがって当時の小笠原島は、条約に定められた開港場ではなかったが、内地の居留地のそれと同様な特権を持つ外国人が居住するという特殊な日本領土であった。


shikoku88 at 18:30コメント(0) |  | 政治 

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