2018年02月22日

前近代社会における人口成長

一人当りGDP

































第一部の「農業生産量の推計」の次は、第二部「前近代社会における人口成長」である。中央集権国家を目指した律令国家の時代は、国家が戸籍制度を整備した。しかし、律令政府の政治力・経済力の低下と、荘園と公領からなる土地制度(荘園公領制)の確立により、国家による全国的な人口・耕地調査が実施できなくなった。

弥生時代から続く稲作の定着と、気温上昇による稲の栽培にとっての自然環境の好転で、古代前半には人口が増える。後半は、当時の農業技術では農業生産の上昇が難しかったこと、温暖化がさらに進んだことにより旱害が進んだこと、そして大陸からもたらされた疫病の流行で人口は停滞する。天然痘の流行で、律令制国家が機能不全に陥るのだ。

本書の研究の成果をまとめたのが、上図なのだが、これを見ると、稲作の普及である程度豊かになった日本は、そこで500年間足踏みをする。その理由は上記の通りで、再び豊かさへの歩みを始めるのは、戦国時代が終わって、安定した江戸時代を待たなければならない。平和になって、まず人口が増え、その後人口増加が止まって、暮らしが豊かになる。富士講やお伊勢参りなど、庶民にも旅行する余裕が出たのは江戸中期からだ。

こうしてみると、政治的安定がいかに生活水準の向上に重要なのかが分かる。独裁国家であっても、「不安定であるよりまし」というのが歴史の示すところだ。
149:律令国家の戸籍制度は、中央集権国家を目指した律令国家の衰退にともない消滅し、以後1000年近くにわたる人口統計の空白期間を生むこととなった。

159:鬼頭推計
古代前半の人口成長の要因を、弥生時代から続く稲作の定着と、気温上昇による稲の栽培にとっての自然環境の好転にもとめている(鬼頭2000、62-65頁)。また、後半の人口停滞については、当時の農業技術では農業生産の上昇が難しかったこと、温暖化が進んだことにより旱害が進んだこと、そして大陸からもたらされた疫病の流行をあげているが、最も重要な要因として、社会体制の変質を指摘している(鬼頭2000、65-69頁)

173:都市人口推計
古代には平城京・平安京に代表される都城地域しかと市は存在しない。まず、日本で最初に条坊制によって建設された宮都であった藤原京(694)の人口は、少ないもので1-3万人、多いもので3-5万人であったと推計されている。


shikoku88 at 19:30│Comments(0) | 経済

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