2017年12月06日

囚人のジレンマ




今年の夏に読んだ井上ひさし『一週間』にも、強制収容所内で発行された「日本新聞」の話が出てきた。これは、ソ連が日本人俘虜の「民主化」のために発行したプロパガンダ新聞。収容所での「民主化運動」とは、日本人同士の内部告発を促すこと。

まるで、経済学の「囚人のジレンマ」そのもの。お互いに何も言わなければ、それまでの極寒の中での飢餓と重労働が続く。しかし、あることないこと言って仲間を貶めてソ連側に気に入られれば、待遇がよくなり、さらには早く帰国できるかもしれない。告発された側は、本人不在で勝手な判決を出され、「戦犯」にされてしまう。

東京外国語学校(現・東京外国語大学)ロシア語科に在籍していた山本は、社会主義運動に関わって退学処分を受けている。ソ連びいきだった山本が、社会主義の現実を知った時の衝撃はいかばかりか。

俘虜の中には、ソ連側に帰国後スパイになることを強制され、それを苦に自殺したものも多い。


11:車輛は振動が激しく、小窓が閉じられると昼でもうす暗い。床の小さな穴が便所代わりの流し場になっていたが、衰弱しきって垂れ流し状態の者もいたので、車内には排泄物の臭気が充満した。そんな家畜輸送車さながらの密室のなかで、なに人かが息を引きとった。

13:その3ヵ月前の8月9日払暁、ソ満国境から150万人のソ連軍が侵攻してきた。対ソ戦を想定して満州に配備されていた関東軍は、すでに主要部隊を南方戦線に引き抜かれ、いちじるしく弱体化していた。戦闘は一方的に終わり、6日後の8月15日には日本は戦争に敗けた。武装を解除された日本軍の将兵と満蒙開拓青少年義勇軍や民間人を含む約60万人が、8月17日から翌年3月にかけて続々とソ連軍の俘虜になった。

59:山本幡男は、明治41(1908)年9月10日に、島根県隠岐郡西ノ島町に六人兄妹の長男として生まれた。松江中学を優秀な成績で卒業すると、大正15(1926)年4月に東京外国語学校の露西亜語科に入った。(中略)山本自身は三高に進みたがったが、弟妹が多かったので、父親に専門学校にしてくれと説得されて断念したのだ。露西亜語科に入ったのは、松江中時代からロシア文学に傾倒していたからである。


shikoku88 at 18:14│Comments(0) | 政治

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