2017年10月26日
第5章 ノムラな人々
横尾氏は事業法人部で実績を上げた後、一旦はNY赴任が決まる。しかし、英語が全くダメなので赴任を渋っていたところ、野村がM&Aハウスとして当時有名だったワッサースタイン・ペレラ社(WP)と作った新設の野村企業情報に出向することになる。
ここの初代社長はジャフコの前専務であった後藤光男氏。後藤社長は、「アルバイトも含めた社員全員で1週間の海外研修を行う」と宣言、ロンドンとNYのWP事務所を巡るのに、超音速旅客機のコンコルドを使う。横尾氏はまだ一円も収益が上がってない新設会社で、会社の金で社員が大名旅行することに反対し、ただ一人参加しない。
横尾氏は、会社に極秘でNMBセミコンダクターのM&Aを進める。NMBセミコンダクターから「後藤は信用できない」と、事業法人部でやってくれという依頼だったのだ。しかし、事業法人部でM&Aアドバイザーをやるわけにはいかず、結局、事業法人部の依頼で横尾氏は会社に内緒で動くことになる。
本件を多角化を進めていた新日鐵に持ち込みTOBが成立する。しかし、その価格は店頭市場で付いていた株価の数十分の一だった。市場もアナリストも巨額の設備投資が必要とされる半導体ビジネスの弱点を理解していなかったのである。NMBセミコンダクターは1993年に新日鐵に買収されて「日鉄セミコンダクター」となるが、その後も巨額の赤字が続き、1999年に今度は台湾の半導体大手UMCに売却される。
一方、1999年、野村證券はWP社の持ち分を買い取り子会社化。さらに2002年4月、野村證券は野村企業情報を吸収合併し、1988年10月に設立された野村企業情報は13年で幕を閉じた。
ここの初代社長はジャフコの前専務であった後藤光男氏。後藤社長は、「アルバイトも含めた社員全員で1週間の海外研修を行う」と宣言、ロンドンとNYのWP事務所を巡るのに、超音速旅客機のコンコルドを使う。横尾氏はまだ一円も収益が上がってない新設会社で、会社の金で社員が大名旅行することに反対し、ただ一人参加しない。
横尾氏は、会社に極秘でNMBセミコンダクターのM&Aを進める。NMBセミコンダクターから「後藤は信用できない」と、事業法人部でやってくれという依頼だったのだ。しかし、事業法人部でM&Aアドバイザーをやるわけにはいかず、結局、事業法人部の依頼で横尾氏は会社に内緒で動くことになる。
本件を多角化を進めていた新日鐵に持ち込みTOBが成立する。しかし、その価格は店頭市場で付いていた株価の数十分の一だった。市場もアナリストも巨額の設備投資が必要とされる半導体ビジネスの弱点を理解していなかったのである。NMBセミコンダクターは1993年に新日鐵に買収されて「日鉄セミコンダクター」となるが、その後も巨額の赤字が続き、1999年に今度は台湾の半導体大手UMCに売却される。
一方、1999年、野村證券はWP社の持ち分を買い取り子会社化。さらに2002年4月、野村證券は野村企業情報を吸収合併し、1988年10月に設立された野村企業情報は13年で幕を閉じた。
192:野村企業情報上場各社の業務内容や財務状況などを調査するのが野村企業情報の仕事なのに、それを組織的に行える体制にもなっていない。私は一介の課長に過ぎなかったが、「事法のようにきちんと担当を決めて、上場会社を一社一社こまめに回らないとダメだ。行き当たりばったりでは無意味だ」と主張した。だが後藤社長は私の言うことを全く聞き入れようとしない。われわれは最初から何かにつけて激しく衝突した。197:われわれがNMBセミコンの売却先として交渉を進めていたのは、本格的に多角化を進めていた新日鐵だった。同社の担当役員には、「2人一緒にNYに赴任することになりましたので、とりあえず行きます。バリュエーションの書類を作るだけですから、向こうでも作れます」と説明して了解を得た。NYでは2人して書類を作り、それが出来上がると帰国して新日鐵とミネベアに持参した。198:当時、NMBセミコン株の店頭価格は300-500万円だったが、実際に株式が公開買い付けされた時の価格は、一株わずか10-20万円。アナリストは誰もが300-400万円というリポートを書いていたいもかかわらず、われわれが算出して、新日鐵とミネベアが合意した価格はそのわずか何十分の一に過ぎなかった。私は「店頭銘柄や未公開企業の価値など、所詮はその程度のもの。正しい価格など、誰にも定められないのだ」と痛感した。
