2017年09月06日
「護送船団方式」による「失われた10年」
そして事件は幕切れへ。
まず、1990年10月7日(日)、住友銀行磯田会長が辞意を表明する。國重氏の手帳メモが始まったのは同年の3月20日。國重氏が画策したのは、イトマンを「しゃぶりつくし」さらには住銀本体にまで食指を伸ばしつつあった闇の勢力を断ち切ること。そのために、既に絡みとられてしまっていた「住銀の天皇」磯田会長を辞任に追い込むこと。実現に半年掛ったことになる。その間に、住銀のイトマンへの不良債権は倍増していた。
これでやっとイトマン問題専従チームが住銀に出来ることになり、國重氏は希望通りその一員に選ばれた。こうして、やっと、住銀全体でイトマンにどれだけの貸金や保証があり、その資金がイトマンでどう使われていたかが究明されることになる。
住銀ではあまりの状況の悪さに、イトマンの会社更生法申立てに傾く。法的整理をしなければ、負債が大きすぎて再生できないという判断だ。
ところが、ここで立ちはだかったのが大蔵省。イトマンの債務不履行による地銀等への取り付け騒ぎを懸念し、「どうしてもイトマンに対して会社更生法を申し立てると言うなら、大蔵省は住銀に対して『停止命令』を出す」とまで言う。「護送船団方式」に守られてやってきた日本の金融界では、預金保険法はあるものの、そのときの手順、プロトコルがまったく定まっていなかった。だから、取り付け騒ぎになって責任問題になることを大蔵省は恐れたのである。
國重氏は、「あのとき、住友銀行がイトマンの会社更生法を申し立てていたとしたら。その後の日本の金融史は大きく変わり、改革が早まって、『失われた10年』もなかったのではなかろうか」という。大蔵省のメンツのために、すでに役割を終えていた「護送船団方式」の最後の延命が計られたのだ。
「あそこが貸しているから、じゃあ右へ倣えでうちも貸す、いざとなったら大蔵省が面倒を見てくれる。そんな何の規律も緊張感もないやり方が一気に崩れたのではなかったか」
住銀磯田会長に次いで、イトマン河村社長を解任に追い込んだ國重氏。だが、そこに達成感はなく、「住友人生の中で一番辛かった日」だったという。その間に事件をメモした手帳は実に8冊になっていた。
293:私は銀行を変えたいと思って情報を集め、工作をする。少し格好つけて言えば、自分の信念があり、正義を貫こうとしていた。他の人たちは自分の依って立つもの、一貫した筋がない。変化自在、いかに出世をするかに腐心をして、人ごとに言うことを変えるようにする。そこに気を配って時間を使う。309:磯田会長は辞任会見をしたものの、辞任の時期については明確に語らず、この期に及んで影響力を保持しようとしていた。そんな磯田会長の姿に喜んでいる秋津専務も呆れたものだった。327:会社更生法の適用に、大蔵省が反対イトマンの債務不履行による取り付け騒ぎを懸念。預金保険法ではそのときの手順、プロトコルがまったく定まっていない。406:1991年1月25日 イトマン取締役会で河村社長解任決議411:イトマン問題専従チーム皆、意気あがらず。十河常務、風邪気味とて早々と帰宅。平尾部長、疲れ切った感じ。國重、嶋津、前田、秋本で二次会。やはり、OBである河村社長を力ずくで解任した後の虚しさを一様に味わったということか。
