2017年09月03日
日本芸能史
永六輔が作家デビューした一冊。「口上」で「後ろめたい本」と本人がいっているとおり、「読みかじり、聞きかじった芸人、訳者のエピソードを並べたたったそれだけの本」といえばその通り。芸能は芸術とは微妙に違い、研究され、本にされることもなかった。通常であれば、週刊誌の記事になって捨てられるだけであったはずだ。1969年に書かれたこの本が、今も読み継がれているのはそうした理由だからだろう。
「中学二年の時にNHKのラジオ番組に投書して、放送とかかわるようになりました。ラジオは80年の歴史がありますが、僕はラジオの仕事を60年やっています。二十歳の時にテレビが開局しました。テレビとの付き合いは50年。テレビの実験放送のときからやっている人は少ないんですが、僕はそこに参加していました。そのとき、僕は、この先テレビであらゆる芸能を紹介するようになるだろうから、僕の知らないお祭りとか芸能の世界を全部チェックしておこう、本も読めるだけ読もう、人に逢えるだけ逢おうと決めたんです」(「四十年ひと回り」文庫版あとがきに代えて)
1933年浅草に生まれ、早稲田大学文学部在学中より放送作家としてラジオ番組や草創期のテレビ番組の構成に携わった。作詞家、司会者、語り手、歌手などとして多方面で活躍後、昨年亡くなった。
テレビの創成期に関わったという点から、黒柳徹子と同時代人ということになる。永六輔はテレビの影響力の大きさに不安になり(テレビで紹介されればなんでも流行り、売れた)、テレビから距離を置くようになる。その頃、和田誠の紹介で「話の特集」に連載したのが、この本の元になっているそうだ。
佐渡島の「鼓童」が、永六輔のラジオ番組が元になってできたというのは初めて知った。
352:テレビ放送が始まって十年もしないうちに、テレビはダメだということが分かって、僕はテレビから離れました。その時期に活字との付き合いが始まるんです。(中略)テレビの影響力が不安になったのは今になってみると的中していました。それで作詞もやめたんです。354:集めた本の量は膨大だったんですが、全部佐渡島の鼓童という太鼓のグループに送りました。今でも送っています。(中略)あれは、TBSラジオの「バックインミュージック」という番組で人生相談をやっていたときに、手紙をくれた子たちに一人ずつ会うのは大変だから皆集まれと言って、佐渡島で合宿したんです。そのまま佐渡島に居残る人がいて、太鼓のグループが生まれていくことになりました。ラジオはそういうことができるんです。テレビではそうならない。358:昔は芸人でなければ生きていけないから芸人になったという人が大部分です。しかし、テレビ放送開始以来五十年たった今は、芸人になっているのは「面白そうだからやってみようかな。つまんなかったらすぐ辞めよう」という人が大部分。(中略)歯を食いしばって頑張ったのは、ビートたけしみたいな、ああいう浅草の経験を積んだような人が最後ですね。でも、今はたけしさんは映画芸術を教える東京藝大教授ですからね。言い方が難しいんだけれども、あの人ぐらい上手に反権力を表に出しながら、権力を利用している人はいないんですよ。

