2017年08月28日

戦前の水俣風土記

椿の海の記 (河出文庫)
石牟礼 道子
河出書房新社
2013-04-05



水俣病をテーマにした『苦海浄土』の著者石牟礼道子による、著者が3-10歳の頃の戦前の水俣の生活を描いた作品。その記憶が驚くほど詳細で繊細で、並外れて早熟で感受性の高い子供だったことが分かる。1927年天草生まれの著者は生後間もなく水俣に一家で移る。

石工の家系で、天草では銘家であったらしい。自身も石工であり石工頭領である祖父は見栄っ張りに加えて、唯一の男子として甘やかされて育ち、金勘定ができない。工事を引き受けるたびに損失を出して、先祖代々の資産を処分していき、一家で没落する。

「天草を出て渡り歩く石工にはこのタイプの名人気質が多く、現世の功利にたけているものはこのタイプからは出てこない。いまひとつの型は海外を渡り歩く村岡伊平治型である。これは資力はなくとも、一種の胆力と才覚と止めどもない野望を持ち、男女にかかわらず天草の人的資源を元手にあきないを発明し、自身も数奇の生涯を送るもので、女たちの中にもこの型が数多く出た」とある。

これに当てはめて言えば、祖父は名人気質で、著者は才覚にめぐまれた後者だったのだろう。


32:ことにおなごの衆というものは生まれながらにして三千世界に家なき身、行って定まるところはお念仏しかない。きょういまここで念仏をとなえても、帰りがけにはもう、ひとの悪態をつき、憎いもののことが心に浮かぶ。

49:下浦といえば、石方の村で、祖父の松太郎は、今でも名のある石方たちから、「石の神様」とか「石方の神様」といわれるほど、石そのものへの特殊な愛着を持っていて、石の発掘や、めききに関して神技をあらわしていたという。

54:土葬の方が多かった土地の風習に火葬はまだなじんでおらず、そのような葬いようをされるのはよくよくの場合と考えられていて、疫病が流行って来て、一日に焼ききれぬほど死人が出たりすると、川のむこう岸の「大廻の塘」に薪を小積みあげ、磯風の吹きさらす中で焼き払われたりして、ことに哀れにさびしく見えていたから、大崎ヶ鼻の火葬場といえば、町の人びとが忌むのも仕方なかった。

64:天草を出て渡り歩く石工にはこのタイプの名人気質が多く、現世の功利にたけているものはこのタイプからは出てこない。いまひとつの型は海外を渡り歩く村岡伊平治型である。これは資力はなくとも、一種の胆力と才覚と止めどもない野望を持ち、男女にかかわらず天草の人的資源を元手にあきないを発明し、自身も数奇の生涯を送るもので、女たちの中にもこの型が数多く出た。


shikoku88 at 18:55コメント(0) |  | 旅行 

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