2016年12月17日

神楽坂:山の手と下町の混ざる街



12月3日、快晴の土曜日の朝、神楽坂へ。近くのBritish Councilには30年近く前LBSの面接に出かけて以来同窓会に使わせてもらったりと何度かお世話になったが、それ以外ほとんど縁のなかった場所。

今回、郷土史研究会で神楽坂が専門の谷口典子さんにプライベートで案内してもらうことになり、大学生の次女と出かけたのだ。谷口さんとは随分前に、法政大学の「日本の企業家たち」という公開講座でご一緒したのが縁。

神楽坂通りは江戸時代に整備される。江戸城への入り口は「牛込見附」で、この外郭門の石垣には「阿波乃国」と彫られた石が残る。阿波藩主蜂須賀家によって造られたのだ。使われた花崗岩も瀬戸内海産という。

神楽坂通りの幅は江戸時代から変わっていない。小説『坊ちゃん』に、主人公が松山で、「オレは神楽坂の広い通りを見て育ったから、お前ら田舎者と違う」らしきことをいう場面がある。今となっては狭い道だが(車も一方通行)、東海道と同じ幅があったということで、江戸時代としては最大級に広い道であったようだ。

明治になり鉄道交通が始まり、陸上物流の比率が増えていくが、それまでは水運が主要な物流手段だった。神楽坂は隅田川と外堀を結ぶ、もっとも上流の船着き場であった。そのため、ここには河岸が作られ、ここで荷揚げされた物資が旗本や御家人に届けられるのだ。そのための商家が発達したのが神楽坂というわけである。

江戸時代は道の両脇とも一歩入れば武家屋敷であった神楽坂に、花柳界が発達するのは明治も終わりになってから。旗本が将軍について駿府に移ったり、俸禄が無くなって没落して空いていた土地に料亭が集まりだす。やはり、河岸があったことが大きいのだろう。

現在、料亭は4軒、芸者さんは19人だけしか残っていないという。その後に増えたのが情緒ある日本料理屋やオシャレなカフェ、フェストランなど。明治時代から日仏学院が近くに置かれたことで、フランス人が多く、フランス系の店が多い。 

shikoku88 at 17:58│Comments(0)TrackBack(0)旅行 | 史跡・公園

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