2015年10月01日
忘れられた徳川家のふるさと
名古屋城は見に行き、徳川資料館も見学したが、三河に「松平郷」があるとは知らなかった。司馬遼太郎が調査に訪れた昭和42-3年頃は、誰も訪れる人のない寂れた場所だったというが、今はPRに務めているようだ。
徳川家の始祖が、松平郷に流れ着いた遊行僧「徳阿弥」で、逗留した村の豪家の娘に生ませた子だというのが面白い。先に子をうませた酒井家については、「腹違いの兄弟」ということで、徳川家の家来にしている。そうした血が無ければ、天下を狙ったりはしないということなのかもしれない。
227:徳阿弥はよほど才知もあり弁舌もすぐれ、魅力のあった男らしく、近所の松平郷の豪家である太郎左衛門という屋敷に出入りし、そこのひとり娘にも子を産ませてしまった。やむなく太郎左衛門家ではこの徳阿弥を婿にせざるをえなくなり、相続させた。徳阿弥は髪をのばして松平親氏と名乗り、さきに子をうませた酒井家については、その縁でこれを松平氏の下に属さしめた。松平・酒井のつよい紐帯はこのときに成立し、徳川家が天下をとったあとも酒井家は譜代大名のなかでも別格とし、大老の地位の約束された家柄になる。233:――三河の兵こそ、東海一である。ともいわれ、「三河者一人のねうちは尾張者三人に匹敵する」とすらいわれた。(中略)家康は年若のころは信長ほどの天才的な戦略家ではなかったから、かれが三河以外の地で出生すれば、あるいは天下の五分の一もとれなかったかもしれない。
235:今川氏はこの三河衆を容赦なく戦場で追いつかった。戦いは織田家が相手であり、年に数度、12年の間の回数は数えきれない。つねにかれらに先鋒をつとめさせた。先鋒はいわば玉ふせぎであり、犠牲は当然大きい。「今川氏は三河衆を根だやしにするつもりではないか」とさえささやかれた。こういう今川氏のやりかたは、ある時期の英国のインド人に対するやりかたとそっくりであった。

