2014年12月29日
香川の地場産業の海外展開が早かった理由

先週、香川の特殊性を書いたところ反響が大きかった。そこで、もう一つの指標を出す。
昭和40年の段階で高校進学率が80%を超えていたのは、東京、広島、神奈川、香川の一都三県だけだった。当時の愛媛、徳島、高知の高校進学率は60%台である。その後も、常にトップクラスで伸び、昭和50年にはほぼ100%となった。
戦前から、香川県白鳥町(現在の東かがわ市)の地場産業は手袋であったが、高校進学率が高まったことで、中卒者を中心としていた人手が集まらなくなってしまった。賃金を多少上げても、「高校を出て、手袋を縫うような仕事をしたくない」と求職者が集まらなくなってしまったのである。
こうして香川の手袋産業は、全国に先駆けて、海外生産に移行していった。また、一部の軽産業は、寮を建てて県外の中卒者を住まわせ、そこから社員を定時制高校に通わせることでもうしばらく県内の操業を継続した。
私が通った県立高校には定時制があり、同じ教室が夜は定時制の生徒によって使われていた。ある時、「一体、どんな生徒が来ているのか」と興味を持ち、机にメッセージを書いて「文通」を始めた。それで分かったのは、定時制の生徒の大半はその街の紡績工場で働く女子工員だったということだ。全員が高知出身で、会社の女子寮に入って、昼間工場で働き、夜は定時制高校に通っていたのだ。
なので、昭和40年の「高知の高校進学率は60%台」というのも、より細かく見れば、女子のかなりの部分は県外の定時制高校への進学ではなかったのかと思われる。
何れにせよ、香川の産業は、県民が教育熱心なせいで、いち早く構造転換を迫られた。こうして、一部の企業は1970年代には低コストを維持するため海外生産を始め、また一部の企業は高学歴・高賃金に見合う高付加価値な製品作りに邁進していった。