2014年03月20日
ベトナムは日本を二度助けた

高松稲門会の昼食例会の今回の講師は、NHK高松放送局の久保局長。地元のご出身で、NHKではテヘラン支局長、ハノイ支局長、
その中で興味深かったのが、日越の歴史的関係。ベトナム駐在の時に、歴史通のベトナム人からこういわれたという。
「ベトナムは日本を2度助けた」
一度目は、元寇。蒙古襲来は、文永の役(1274)と、弘安の役(1281)の2度あったことは学校で習った通り。弘安の役では、元・高麗軍4-6万人に加え、旧南宋軍10万人、合わせて約15万人が軍船4400隻に乗って派遣された。この艦隊規模は世界史上例を見ない、最大規模のものであった。この大艦隊が、よく知られている通り、最後は台風で大半が失われてしまう。無事だった船に将校が乗って元に帰ったため、10万人の兵士が松浦の鹿島に残された。戦闘の末、2-3万人が日本軍の捕虜になったという。
あまり知られてないのは、クビライがこれで日本侵略をあきらめたのではないということ。第3次日本侵攻計画を準備していたが、この計画がとん挫したのは、当時ベトナム南方にあったチャンパ王国との戦争が始まったためである。クビライは第3次日本侵攻計画の総司令官と15000の兵、軍船200隻をチャンパ王国に派遣したのだ。さらにこの後、元に服従していたベトナム北部の陳朝大越国でも反乱がおこり、最終的に、日本侵攻のために用意していた500隻の軍船と、92000人の兵をベトナムに差し向けることになる。こうして3度目の日本侵攻計画はとん挫したのだ。
これが「ベトナムが日本を助けた」一度目。確かに、ベトナムでの戦争が起こらなければ、「三度目の正直」で日本は元の属国となっていた可能性もある。
ちなみに、元寇の際の日本軍の勇猛果敢な戦いぶりは中国に強烈な印象を残した。元の後、明の時代にも3度日本征討論が持ち上がったが、元寇の失敗を鑑みて、実行されることはなかった。南宋遺臣の鄭思肖は以下のように述べている。(Wikipedia)
「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」