2012年08月18日
終戦 なぜ早く決められなかったのか

帰京。旅行中、本も読もうと思って何冊か持って行ったが、会食やらスパに入ってビールを飲んだりで、夜はついTVに。丁度終戦記念日であり、恒例のNスぺを見る。毎年のことでマンネリになりつつある印象だったが、今年のは面白かった。
「日本はソ連の対日参戦を早い時期から察知しながらソ連に接近していた」 というのである。これまでの通説は、「日本は、ソ連が対日参戦を決断していたにもかかわらず、愚かにもソ連に接近しようとした」であった。
ところが、最近発見された英国公文書館の資料で明らかになったのは、昭和20年2月のヤルタ会談の内容(ソ連の対日参戦)を知ったストックホルムの陸軍武官が大本営に報告していた、というのである。日本側の資料には残ってないようだが(終戦時に資料焼却命令が出ている)、この報告は英国諜報部に傍受され、暗号解読されて英国側の資料には残っていた、というわけだ。
英米と戦って追い込まれている日本が講和の仲介役を頼もうとしたソ連。そのソ連が既に対日参戦を決めているとなれば、万事休す。この時期には軍幹部も戦争継続が無理なことを承知していた。となれば、「国体護持」だけを条件に降伏するしかない。
そんな重大情報だったのに、ナント、大本営作戦部が握りつぶしてしまったらしい。それは、大本営の作戦では、「米に一撃を与えたのち(一撃論)、ソ連を仲介になるべく有利な講和条約を結ぶ」であった。ところが、「ソ連が対日参戦を決めた」となれば、そのシナリオが崩れてしまい、「軍部が言ってきたことは間違いだった」となる。それを避けるために、不利な情報を内閣に上げなかった。
また同時期、後にCIA長官となるダレスが、ソ連の動きに不信感を持ち、「和平交渉に応じてもいい」と手を差し伸べてきた。この情報はやはりスイス駐在武官からもたらされたが、外務省は「こんなの謀略だ」と一蹴している。当時の外務官僚の証言によれば、「外交の専門である我々以外のところから重大情報がもたらされたとなれば、メンツに関わるから」という理由で、一考だにされなかったようだ。
「国家存亡の危機を前にしながらも、自己の権限の中に逃避し、決定責任を回避しあっていた指導者の実態」(NHK)ということだ。太平洋戦争での犠牲者310万人のうち9割は最後の一年で死んでいる。降伏の決断があと半年早かったなら、東京大空襲も、原爆も、満州での蹂躙も無かった。
「戦後の教育はダメだ。リーダーが育たない。」という声は根強いが、戦前の教育もどうだったのか? という気がしてくる。教育だけの問題でなく、民族性の問題なのだろうか。