2007年12月16日

戦前の役員報酬4

52139d5a.jpg昨日の「日本の企業家史」の後半は大正時代に鐘淵紡績(現カネボウ)の社長を務めた武藤山治。

武藤は大卒専門経営者のはしりで、買収に次ぐ買収で日本最大の紡績会社への道を歩んでいた鐘淵紡績に1894年三井銀行から転出する。

その後1906-7年に「鈴久事件」というカネボウ株の買占め事件がおこり、大株主と経営方針が対立した武藤は辞任する。ところがカネボウ経営上必要不可欠ということで、乞われて翌年専務として再入社する。

この事件の反省から、「後に自らも3%位の株主になった」という話があったので、一体幾ら給与を貰っていたのかと気になった。質問したところ、戦前は役員報酬の数倍の賞与を経営成績に応じて貰うのが当たり前だったらしい。

武藤の下で、70%配当という超好成績を収めていた当時のカネボウは利益の30%位を役員賞与に当てていたそうだ。資料に寄れば、1904-1937年のカネボウの銃利益は大体1-10百万円。これは100-1000億円に相当する。

ということは、役員全体として数十億円から数百億円の役員賞与が毎年支払われていたことになる。役員が何人居たのかまで調べてないが、数十人居たとしても、一人平均数億円から数十億円のボーナスが支払われたことになる。

カネボウだけが特別だったのかもしれないと思い調べてみると、三井財閥各社とも「純利益の10%を役員賞与とする」制度だったらしい。例えば、1919年に支払われた役員賞与は、三井銀行65 万円(10%)、三井物産35 万円(4%)、三井鉱山77 万円(10%)でやはり総額数十億円規模となる。

一言で言えば、「戦前の役員報酬は現在のアメリカ並みだった」ということになるだろうか。欧米の資本主義を当時そのまま取り入れた日本としては当然の帰結だったのかもしれない。

ちなみに、日本陸軍の騎兵の創設者秋山好古が陸軍士官学校に入学する前に勤めた師範学校教員の給料は30円。同じく松山出身の正岡子規の日本新聞社での初任給は15円、松山に赴任した夏目漱石の給料は80円。洋行帰りの漱石は破格だったわけだ。これなど、当時の状況から言えば、「遠隔地手当」が含まれていたのかもしれない。





shikoku88 at 19:40│Comments(0)TrackBack(0)仕事 | 教育

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