2022年06月
2022年06月30日
船鉄交換
金子直吉の真骨頂ともいえるのが、米国が鉄輸出を禁止した際の話。第二次世界大戦前ではなく、第一次世界大戦で世界的にモノ不足になって、物価が高騰した時の話だ。
当時、日本での鋼鉄生産は始まったばかりで(1901官営八幡製鉄所)、まだまだ米国から鉄を輸入していた日本は困り、政府交渉するが失敗する。政府がダメならと、財界を代表して浅野総一郎が交渉するがやはり失敗してしまう。お鉢は当時日本有数の商社になっていた鈴木商店に回って来る。
金子直吉はかねてから親交のある駐日大使モリスを訪ねて、こういう。
「米国は船は欲しくないか」
モリス:もちろん、欲しい
米国は世界大戦を戦っている英仏に兵員・物資を送るため、船はいくらあっても足りなかった。
「船は作る。その代金は鉄で払ってほしい」
いわゆる、米国政府との「船鉄交換」であり、それなら、とモリスも本国を説得する。
162:日本は米国より鉄材を受け取り、その2/3に当たる頓数の船腹を米国へ提供する代わりに、残りの資材は日本の需要に当てる。
直吉は、その契約について、米国政府を代表する(駐日大使)モリスのサインだけでは納得しなかった。米国の世論が騒ぎ出すことによって、再び米国政府が契約破棄を申し出てくる可能性を考えた。モリスに一旦サインさせた上で、米国の民間ベースでの保証を求めた。有力な民間金融機関がその契約の実行を保証せよというのである。
モリスは、直吉に押し切られた。本国政府に交渉し、米国政府も譲歩して、National Citi Bankの保証がとりつけられることになった。直吉は、日本の重工業の危機を救った。それも、堂々の勝利であった。
143:大阪朝日
鈴木は手段を選ばぬ小麦粉買い占め戦の勝者であり、後に誤報と訂正したものの、敵国ドイツへ米を送った売国奴という印象がつくられている。
152:買占めは、商人だけではない。農民もまた、売惜しみし、隠退蔵をはじめた。
「お客さんが群集心理でよけいに買うから、よけい足らんようになる。」
159:「大阪朝日の社会主義者ども」
誤報に関する部分の取消しを再三求めた。しかし、それは営業の窓口を通してであって、編集の中枢までは届かなかった。(中略)直吉はまるで取り合おうとはしなかった。
188:大阪朝日社会部長 長谷川如是閑「世間では皆言っていることだったな」
世間は朝日が言っているといい、朝日は世間が言っているという。
2022年06月29日
高畑ロンドン支店長
神戸高商卒で、27歳で鈴木商店ロンドン支店長に抜擢されたのが高畑誠一。
愛媛県喜多郡内子町出身。生家は内子町ではかなり古い家系で、高畑誠一で14代目になる。呉服、食料品、日用雑貨までなんでも扱う小売店をやっていた。旧制西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)を経て神戸商業大学 (旧制)神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業。神戸高商在学中は三井物産入社を志望していたが、尊敬する水島銕也校長の推薦ということで明治42(1909)年3月鈴木商店に入社。大正元(1912)年、当時は世界の政治経済の中心であったロンドン支店勤務となる。
長年のロンドン駐在中にゴルフを習得。帰国後、ゴルフのルールや歴史に関する本も出版している。昭和2年(1927)に鈴木商店が破綻すると、翌年、鈴木商店の子会社で会った日本商事を「日商」と改めて、同社の社長となる。戦後は同社の代表取締役会長に就任し、同社を総合商社の一角に育て上げた。日商はその後岩井産業と合併して、日商岩井に。現在の双日だ。
87:初夢や太閤秀吉奈翁(ナポレオン) 白鼠
87:初夢や太閤秀吉奈翁(ナポレオン) 白鼠
95:鈴木商店
2000人を超す従業員を抱え、1億の利益留保を目指しているこの時もなお、鈴木商店は資本金50万円の合名会社。
125:後藤新平
たまたま直吉が選んだ窓口は、当時の政治社会では、最悪の窓口。攻撃の標的とされるのに打ってつけの窓口。小回りのきかぬ直吉は、仮に最悪と気づいていても、やはりその窓口を通さずには居られぬ性格。
129:Baltic Exchange
世界で最も伝統のある商品取引所であり、船舶・石炭・麦・米・砂糖・ゴム等の代表的な取引商人がメンバーとなる。資格はきびしい。その中に、たった二人の日本人が加わった。三井物産の向井忠晴と、鈴木商店の高畑である。
131:高畑(高商卒、27歳でロンドン支店長)
日本ゴルフ界の草分け。高級住宅街ハムステッド在住。美食家。
井上準之助、新渡戸稲造、藤山雷太など、各界の人士が高畑邸の客。
2022年06月28日
金子直吉
鈴木商店の支配人であった金子直吉はどんな人物だったのか。美男の二代目と自負していた福沢諭吉の娘婿、福沢桃介はこう書いている。
77:「金子は身の丈五尺二寸五分、体重十五貫八百目の中肉中背、此処はマアよいが、口は大きく鼻低く、目は小さくて、しかも六度の近眼だ。加ふるに色飽く迄黒く、丸でインディアンのやうだ。とも角、並外れた醜男である」「実業家の風貌も二代三代となると、自然メッキがのって、綺麗にもなれば品も出来るが初代の御面相はお話にならぬ。渋沢栄一、大倉喜八郎、根津嘉一郎等何れも皆然り。金子と来ては抜群なものだ」
風采は上がらなかったようだが、一方で、渋沢栄一、大倉喜八郎、根津嘉一郎ら大物財界人と並べて、その実力を評価しているともいえる。
78:四季を通じて同一の服と見たのはまちがいで、同色同柄のものを厚地・中・薄地と、三通り揃えてつくらせ、季節に応じて取り替えていた。
年間を通して、いつも同じ鼠黒(チャコールグレー)の服を着ていたらしいのだが、実は、生地は季節に合わせて3種類用意してあった。ただ、色も柄も同じにしてあったのだ。
と聞くと、Steve Jobsを思いだす。夏や黒のTシャツ、冬は黒のタートルネック。現在のシリコンバレーなのでスーツを着なかったが、もし100年前であれば、金子直吉同様、同色同柄のスーツを年中着ていたかもしれない。それは毎朝着るものに頭を使わない知恵でもあった。
と聞くと、Steve Jobsを思いだす。夏や黒のTシャツ、冬は黒のタートルネック。現在のシリコンバレーなのでスーツを着なかったが、もし100年前であれば、金子直吉同様、同色同柄のスーツを年中着ていたかもしれない。それは毎朝着るものに頭を使わない知恵でもあった。
79:「内地の商売は、日本人同士の内輪で金が動くだけ。芸者と花合わせをやるようなものだ。何より、外人から金をとらなくちゃいかん」
81:大正4,5,6年と、鈴木は雪だるまのように大きくなった。世界中の多種多様な商品の相場が、どこよりも早く鈴木に届く。まだ通信社のない時代であり、朝日・毎日などの大新聞も、みな鈴木に前日の引値を訊きに来た。
2022年06月27日
鈴木商店焼打ち事件
かつて神戸に、「鈴木か、三井か」と地元のエリート神戸高商(現在の神戸大学経営学部)卒業生に就職人気No.1だった商社があった。一時は年商で三井物産を追い抜き、日本一になったこともある。
その鈴木商店は、日本有数の商社であったにも拘わらず、金子直吉という番頭一人が一代で大きくしたため、組織形態は個人商店のままだった。また、直吉のワンマン体制であったため、会社は直吉の性格そのままで、第一次世界大戦での戦時景気までは攻撃型の直吉の下で拡大を続けたが、その後の不況で守りの弱さが出る。
戦争景気で物価が上がった大正7年には、米を買い占めているという悪意を持った朝日新聞による虚報がきっかけで、本店が焼打ちにあうという被害を受けている。これも、「商売さえ真面目にやっていればいい」という直吉が、朝日新聞が憶測記事で世論を扇動するのを看過し、何の対策も取らなかったからだ。そして、最後は、銀行を嫌い、グループに銀行を持たなかったことが致命傷になる。
58:鈴木商店は最後まで金融に手を出さず、また、金融資本に頭を下げなかった。直吉が徹底した銀行ぎらいであったからだ。「わたしは土佐生まれだから、金融資本と断固として戦う」
25:憲政会は、内閣を倒すためには、あらゆる手段を使って、といういきごみであった。後藤内相が金子直吉と親交のあるということは、絶好の攻撃目標を与えることになり、ことごとに鈴木はたたかれた。
34:すでに地元の神戸高商卒業生にとっては、鈴木か、三井かと、格好の就職先とされていたが、米騒動の大正7年には、帝大出を一挙に10人採用、また東京高商を卒業した大屋晋三(現帝人社長)が29人の卒業生を連れ、集団就職している。個人商店でありながら、帝大・一橋合わせて40人の新卒者を呑む勢いであった。
2022年06月26日
開高健の絶筆
この作品は未完で、開高健の絶筆ということになっている。主人公は開高健本人と思われる小説家で、ベトナム戦争から戻ってきて何作か書いてからは、書けなくなって悶々としている。それを紛らわすように、昔からの愛人や、新しい若い娘、さらには10年ぶりに帰国した昔の恋人と逢瀬を重ねながら、昔のことを邂逅する内容。
121:豆腐屋のラッパの音がたまらないという。わびしいとも、さびしいとも、図々しいとも、間が抜けているともつかない豆腐屋のラッパの音を聞くと、いてもたてもいられなくなるという。
142:若い復員兵たちは満員電車からはみだして連結器に乗り、闇市へ物を売りにいくのだが、カーヴの地点にくるとあっけなくふり落とされて死んだ。長い距離にわたって線路や草むらに脳と肉の破片が散らばり、タバコや魚の干物やイモなどがそれらにまじって散らばるが、葬儀屋は長い竹箸を使って肉片だけをひょいひょい拾っていき、そのあとから子供や大人がさきを争ってタバコを拾い集めた。
152:高い音をたてて鳴るしとどの果汁をかきわけかきわけ浸透していくと、しなやかで柔らかい恋矢があちらこちらからあらわれて、ぴくぴく私をつついたり、舐めるようにたわむれたり、ふいにきゅっと呑みこみかかったりする。それがまざまざと昔のままなので私は十年以前や十年間を抱いていることにもなるのだった。
解説:ユルゲン・ベルント1993(フンボルト大学教授・ベルリン森鴎外記念館館長)
これが現代の真実であり、この背景を踏まえて開高健の文学作品を全体として考察すると、最初の頁から最後の頁に至るまで、真実を探り真実を語る努力で満たされている。開高は任意で無責任な態度を取り続けることがない。真実それ自体は不安にさせるものであり、現代の真実を個人に置き換えて、それを追体験できるように試みたとき、開高自身がその真実によって極度に不安になっていた。
2022年06月24日
ルールが人間の判断にまさる
「あらゆるルールが人間の判断にまさる」という。
193:あらゆるルールが人間の判断にまさる理由/祐屬糧獣任砲魯譽戰襯離ぅ困箋_颯離ぅ困入り込み、判断の質を大幅に下げてしまう。このためシンプルでノイズフリーであることが重要なアドバンテージになる。ばかばかしいほど単純なルールでさえ、人間よりは精度が高い。∨賃腓蔑未離如璽燭存在すると、高度なAIは予測に有効なパターンをすぐさま見つけ出し、単純なモデルを上回る予測精度を示す。このようなAIモデルは、単にノイズがないだけでなく、多くの情報を活用する能力(「折れた足」を検出するなど)の点でも優位に立つ。
ロビン・ドーズは「不適切な線形モデル」(1974)で、「不適切な」ほど単純な線形モデルで、「適切な」回帰モデルに劣らず正確で、臨床的判断よりずっと精度が高かいことを証明した。
186:倹約モデル被告が再犯を繰り返すタイプかどうか?既存のモデルでは被告のリスクレベルの評価に137もの変数⇔研究チームたった2つ年齢と有罪判決を受けた回数。同等の予測精度。
194:ミール1996機械的判断に対する反対17種類を論破
アルゴリズムに反対しているのは、医師、精神分析医、裁判官など高度に専門的なプロフェッショナルたち。「テクノロジーに対する失業への恐怖」「(アルゴリズムに関する)知識不足」「全般的なコンピュータ嫌い」
2022年06月23日
統計的予測モデル
プリンストン大学の社会学教授であるマシュー・サルガニックは、2006年に音楽ダウンロードについての大規模実験を行う。
これはカスケード効果と呼ばれるもの。同じことはAmazon.comでも、食べログでも毎日起こっている。かようにスコアは、初期の偶然や、場合によっては仕込みや悪意で大きく左右される。142:音楽ダウンロードについての大規模実験(マシュー・サルガニック)5か月経っても、最初にたった1票人為的に「高評価」を得たコメントの評価の平均は、そうでないコメントより25%も高かった。つまり、最初の評価の影響はノイズの発生原因となる。
144:カスケード効果大勢の人が順番に前の人の選択情報を参照しながら判断する場合に、自分自身の持つ情報に基づかず、多数派の選択肢を選ぶ傾向のこと。同じ問題を同種の集団が議論して正反対の結論に向かうのも、最初のちょっとしたちがいで結果が大きく違ってくるのも、カスケード効果で説明できることが多い。
149:集団積極化
社会的影響が「集団積極化」と呼ばれるノイズを生じさせる。集団積極化とは、集団の中で互いにやりとりするうちに、往々にして集団としての意見が個々人のもとの考えよりも極端な方向に振れやすい現象。
165:統計的予測モデルは人間に勝つ
1954ポール・ミール『臨床的予測vs統計的予測:理論分析とエビデンス評価』
一般に単純な機械的ルールのほうが人間の判断より優れている。
177:「人間は判断を下すときに、複雑で微妙なルールを見つけたと考えがちだが、複雑で微妙な斟酌はだいたいにおいて単に時間の無駄だ。そのようなものが単純なモデルの精度を上回ることはまずない」
2022年06月22日
ノイズを測るものさし
同調圧力が強いのは日本社会の特徴だが、程度の差は別にして、欧米でも存在する。
しかし、これを放っておくと、声の大きい人の意見に引っ張られたり、問題の先送りになってしまい、進歩しない。異なった意見をぶつけて、議論がかみ合ったときに、集団としてよりよい解決策を生み出せる。49:不一致の居心地の悪さ議論百出の大論争のほうがコンセンサスや調和より好きだという組織はまず存在しない。組織の様々な手続きは意見の不一致が起きる頻度をなるたけ減らすように設計されている。
そのために、意思決定プロセスをどう設計すればよいかは本書の後半のテーマとしてここでは置いておく。個人レベルでは、どうしたらいいのか?
124:ヘルツォークとヘルトヴィヒによる意思決定者へのアドバイス独立した第三者に意見を求められるなら、そうするほうがよい(群衆の知恵)。だがそれができない場合には、自分の中に群衆を創って、同じ質問をもう一度自分にしてみること。
54:一回限りの判断におけるノイズ
一回限りの判断は、組織の中で能力や資格を持つプロフェッショナルが同質のケースについて繰り返し行う判断とはまったく別物として扱われてきた。繰り返し行う判断は社会科学者の関心の対象で、掛かっているものの大きい一回限りの判断は歴史学者や経営学者の守備範囲だ。両者のアプローチもまったくちがう。繰り返し行う判断の分析には統計が使われることが多い。(中略)対照的に一回限りの判断を論じる際には、因果論的アプローチが採用されることがおおい。(中略)経営判断の成否に関するケーススタディのような過去の行動の分析においては、一回限りのその判断になぜ至ったのかを理解することが目的となる。
75:判断を評価する
実際の結果と照合する方法と、判断に至るまでのプロセスの質を評価する方法の二つ。検証可能な判断の場合、同じケースであっても、評価方法次第で結論が違ってくる可能性がある。
79:システムノイズ
システムに一貫性や統一性が欠けていること。そのようなノイズの存在は、システム自体の信頼性を著しく傷つける。
91:平均二乗誤差(MSE)=バイアスの二乗+ノイズの二乗
122:機会ノイズ
同じ人間が下した二つの判断の平均は、第三者にセカンド・オピニオンを求めた場合ほどには向上しない。「自分に二回同じ質問をした場合に得られる精度の向上は、第三者にセカンド・オピニオンを求めた場合の1/10程度である」(ブル&パラシュラー)
自分の中に群衆を作る方法
|噂磴忙間の経過を待つ(1回目の判断から距離を置く)
一回目の判断に積極的に反論し、問題に新たな光を投げかけてもよい
どのやり方で自分の中に群衆を作ったにせよ、(ある判断が必ず正しいという強力な論拠のない限り)2回の判断を平均すると最も精度の高い答えが得られる。
129:あなたはいつも同じ人間ではない
気分が変われば、あなたの認知メカニズムのいくつかの性能が変化する。
2022年06月21日
刑罰は裁判官次第
米国では「刑罰は裁判官次第」だという。刑の重さは犯罪そのものや被告人本人よりも担当する裁判官に左右される。要するに、裁判官自身の価値観や好みや先入観によって同じ犯罪でも刑罰が大幅に違うのだ。
最初にこの問題に注目して調査したのは、マービン・フランケル連邦裁判所判事で、調査の結果、量刑のばらつきは「度肝を抜かれる程」だったという。
その後も、フランケルや他の研究者によって何度も実証分析が行われたが、いずれも、大きなばらつきを認めた。それに注目したのはJFKの弟のEdward M. Kennedyで、分析結果に強い衝撃を受けた。1974調査(架空の事案を数種類用意し、地方裁判官50人に各事案の量刑を求める)・ヘロインの売人の量刑は懲役1〜10年・銀行強盗は5〜18年・恐喝3〜20年・20件中16件では、そもそも刑務所に送るべきかどうかで意見が一致しなかった
そして1975年に量刑改革法案を議会に提案する。しかし真偽はいっこうに進まない。ケネディは諦めなかった。証拠の存在を強調し、法律制定の必要性を何年もの間、訴え続けた。そして1984年についにやり遂げる。議会は、量刑の甚だしいばらつきはとうてい正当化できないとして、1984年量刑改革法を可決した。
この内容は、簡単にいえば、量刑のガイドラインで、裁判官がガイドラインに沿って量刑を決めなければならないとするものだった。当たり前に思えるが、驚いたことに、2005年、最高裁がガイドラインの法的拘束力を否定する。これで、ガイドラインは強制から単なる勧告という位置づけになる。
こうして、判決のブレは量刑改革法以前に戻った。裁判官の75%がこれを歓迎する。
こうして、判決のブレは量刑改革法以前に戻った。裁判官の75%がこれを歓迎する。
2022年06月20日
組織はなぜ判断を誤るのか?
ヒューマンエラーには二種類あるという。一つが、系統的な偏りである「バイアス」で、もう一つがランダムなバラツキである「ノイズ」だ。どちらもエラーを構成する要素で、射撃結果に例えれば、下図のチームAにしたいのだが、チームBにはバイアスがあり(ノイズはほぼない)、チームCにはノイズがあり、チームDにはバイアスとノイズの両方がある。
実社会でこの「二種類のエラー」から生じる悪影響は大きい。個人のバイアスはよく知られており、それに対する対策も取られるが、ノイズについてはバイアスほど認識されていないという。例えば、アメリカにおける難民認定では、「ある審査官は申請の5%しか許可しないが、別の審査官は88%を許可する」ことが調査の結果分かったという(「難民ルーレット」)。
同様のことが、保釈審査でも、特許審査でも、企業の人事評価でも毎日行われている。

10:二種類のエラー
多くの組織はバイアスにもノイズにも悩まされている。
診療現場:同じ患者について複数の医師がちがう診断を下すことはめずらしくない。
子供の保護:児童相談所などのケースマネージャーは、子供に虐待の恐れがあるかどうかを判断し、該当する場合には保護施設で預かるかどうかを決めなければならない。
予測:新製品の売れ行き、失業率の推移、経営不振企業の倒産の可能性などさまざまなことをそれぞれの分野の専門家が予測しているが、これらはおしなべてノイズが多い。
難民認定申請:アメリカで難民認定の申請が承認されるかどうかは、宝くじのようなもの。ある審査官は申請の5%しか許可しないが、別の審査官は88%を許可することが分かった。
人事:採用面接では、同じ候補者に対する評価が面接官によってまちまち。また従業員の人事評価もばらつきが多い。
保釈審査:後半開始まで容疑者を保釈するか留置するかの判断はノイズが多い。担当裁判官にかなり左右され、寛大な裁判官とそうでない裁判官がいる。
科学捜査:専門家同士の意見が食い違うだけでなく、同じ専門家が同じ指紋を別の場面で見せられると、前回とは違う判断を下したりする。
特許審査:特許が審査を通過するか却下されるかは、どの審査官が担当するかという偶然に大きく左右される。
2022年06月19日
新政府で重用される
長崎で英語を習い、西洋人相手の交渉にも長けていた大隈重信。維新後は、その能力を買われて、新政府に呼び出され東京に住む。
この時取り組んだ一つの案件が、横須賀造船所の代金支払い。ここは幕府がフランスの支援でつくった造船所だが、幕府はその代金をまだ支払っていなかった。それで、フランスは代金が支払えないなら、造船所を接取するという。新政府とすれば、欧米列強に橋頭保を与えるのは危険だし、欧米の侵略を防ぐため軍艦を建造できる造船所はどうしても欲しい。しかし、金はない。
大隈重信は、フランスと覇権を競っていたイギリス駐日大使のパークスに直談判する。
「フランスが横須賀造船所を押さえてもいいのか⁉」
311:横須賀造船所の代金支払いパークスの紹介で、オリエンタルバンク(英国東洋銀行・イギリスの植民地銀行)から借りて支払い。後に日本国債の発行を積極的に引き受けて暴利を貪るが、日本の発展に貢献。
287:佐賀人には嫉妬という精神風土がない
『葉隠』という精神的な枠組み。最も嫌う感情の一つが嫉妬。
304:上野戦争
副島と大木に周旋してもらい、鍋島直大率いる佐賀藩軍とアームストロング砲を大村益次郎の指揮下に編入させる。
364:築地梁山泊
東京で再婚。3000石の元旗本屋敷に住む。
2022年06月18日
幕末佐賀風雲録
今や、茨城県と並んで全国でもっとも存在感が薄いのが佐賀県。それが、幕末の佐賀藩は、最先端の軍備を誇り、幕府と倒幕側双方が自陣に引き入れようと、争っていた。初戦にこそ出遅れたものの、上野戦争以降、東北戊辰戦争の数々の激戦に決着をつけたのは、佐賀藩が持っていた当時最新鋭のアームストロング砲だった。
そんな佐賀藩に天保9年(1838)2月16日生まれたのが、大隈八太郎。後に早稲田大学を創立する大隈重信だ。その大隈重信を主人公とする今年出たばかりの小説。
実は、これまで大隈重信に関する本を読んだことはなかった。大隈重信は演説はうまかったらしいが、いくつかの小冊子を除いて、著書を残していない。そこが慶応義塾大学を創った福沢諭吉と違うところだが、二人は同じ九州人として、仲が良かったらしい。
大隈重信が政府から下野して大学設立を決めたとき、講師派遣などで全面的に支援したのは福沢だ。当時正式な大学と言えば、帝国大学しかなく、帝大の教授が他大学でも講義することが普通だったが、政府と対立して辞めた大隈には協力するなと通達が出ていた。
15:佐賀会所小路 大隈家嫡男「八太郎」誕生
父の信保は長崎港警備を専らとする石火矢頭人(大筒組頭・砲台指揮官)で、知行300石に物成(役料)120石を拝領する上級家臣。石火矢頭人は、佐賀藩と福岡藩が1年交代で幕府から任命されている「長崎御番」の中核。
18:火術方 天保15年(1844)設立
鉄砲を鋳造する部門。藩内でも優秀な若者だけが抜擢される花形部門。
44:天保15年(1844)オランダ使節が日本に開国要求
鍋島直正自らオランダ軍艦に乗り込む。大名として初めて鉄製大砲で装備された蒸気船を見学。
嘉永5年(1852)精錬方 反射炉の建設→蒸気機関開発、鉄製大砲製造
安政5年(1858)三重津海軍所(造船所)
66:江藤新平『図海策』1856
「積極的開国により通商を盛んにし、富国強兵によって西洋諸国との間に対等の関係を築く」という大攘夷論を展開。
166:アームストロング砲
グラバーから買い付け。これまでの砲の常識を覆す装填の速度と射程。
185:トーマス・ブレーク・グラバー
安政6年(1859)、開港間もない長崎に来日(ジャーディン・マセソン商会駐在員)→独立
当初は生糸と茶の輸出→武器の輸入で巨万の富
199:日本初の実用的な蒸気船〜佐賀藩「凌風丸」
薩摩藩は安政2年(1855)に日本初の蒸気船となる雲行丸を建造していたが、故障や蒸気漏れが多く、湾内の輸送に使うのが精いっぱい。
2022年06月17日
2022年06月15日
CI戦略x映画『モンスターズ・インク』
アメリカでCI導入が流行ったのは1950〜1960年代にかけてらしい。アメリカで流行ったものは、大抵日本でも流行る。日本でCI導入が始まったのは1970年代だという。
その頃はまだ子供でそんなことが起こっているとはまったく知らなかったが、CI導入の嚆矢がマツダだという。PAOSによる5年間の準備を経て、1975年に今に至るmazdaのコーポレートマークが導入される。しかし、社名はそのまま東洋工業で、ブランド名の「マツダ」に統一されるのは、1984年。CIの観点からすれば、当然、統一されるべきなので、これは不思議。さらに、現在のエンブレムが導入されるのは1997年だ。
第一次石油危機が起こったのが1973年だから、CI導入はその前に決定され、危機後に導入された。当時のマツダはロータリーエンジン(RE)を世界で初めて実用化させ、これで世界に打って出ると大規模な設備投資を行ったばかり。1970年の米マスキー法による排気ガス規制では、ホンダのCVCCと並んで、マツダのREも規制をクリアしており、これも松田社長を強気にさせて、石油危機は一過性のものと推定して、在庫を作り続けたらしい。
しかし、高騰した石油価格は下がらず、燃費の悪いREは売れなかった。マツダは経営危機に陥り、メインバンクであった住友銀行の管理下となる。住友銀行は単独での再建は不可能と判断し、資本提携先を探す。当初はトヨタや日産、三菱自動車など、国内で探していたが見つからず、最終的にはFordと資本提携することになる。
そんなわけで、多額の費用を払って導入されたマツダのCIだが、意味があったのかどうかは不明。改めてマツダの歴史を振り返ると、商業的には失敗だったRE開発、石油危機を一過性と見ての増産、バブル期の身の丈をはるかに超えた販売チャネル拡大だとか、経営判断ミスの連続。銀行管理下に入ったとき、住友銀行が経営レベルを「町工場並み」と判断したのもうなづける。世界金融危機以降、フォードの元を離れてからの復活は本物だと思うが、これだけ経営危機を乗り越えてきた会社も珍しい。
本書では、CI導入ブームが1970年代となっているが、実際に多くの会社が導入したのは1980年代後半、バブル景気になってからだと認識している。
63:モンスターズ・インクは、子どもたちを怖がらせて悲鳴をタンクに集め、町へエネルギーを供給する。公益性の高い株式会社。
その頃はまだ子供でそんなことが起こっているとはまったく知らなかったが、CI導入の嚆矢がマツダだという。PAOSによる5年間の準備を経て、1975年に今に至るmazdaのコーポレートマークが導入される。しかし、社名はそのまま東洋工業で、ブランド名の「マツダ」に統一されるのは、1984年。CIの観点からすれば、当然、統一されるべきなので、これは不思議。さらに、現在のエンブレムが導入されるのは1997年だ。
第一次石油危機が起こったのが1973年だから、CI導入はその前に決定され、危機後に導入された。当時のマツダはロータリーエンジン(RE)を世界で初めて実用化させ、これで世界に打って出ると大規模な設備投資を行ったばかり。1970年の米マスキー法による排気ガス規制では、ホンダのCVCCと並んで、マツダのREも規制をクリアしており、これも松田社長を強気にさせて、石油危機は一過性のものと推定して、在庫を作り続けたらしい。
しかし、高騰した石油価格は下がらず、燃費の悪いREは売れなかった。マツダは経営危機に陥り、メインバンクであった住友銀行の管理下となる。住友銀行は単独での再建は不可能と判断し、資本提携先を探す。当初はトヨタや日産、三菱自動車など、国内で探していたが見つからず、最終的にはFordと資本提携することになる。
そんなわけで、多額の費用を払って導入されたマツダのCIだが、意味があったのかどうかは不明。改めてマツダの歴史を振り返ると、商業的には失敗だったRE開発、石油危機を一過性と見ての増産、バブル期の身の丈をはるかに超えた販売チャネル拡大だとか、経営判断ミスの連続。銀行管理下に入ったとき、住友銀行が経営レベルを「町工場並み」と判断したのもうなづける。世界金融危機以降、フォードの元を離れてからの復活は本物だと思うが、これだけ経営危機を乗り越えてきた会社も珍しい。
本書では、CI導入ブームが1970年代となっているが、実際に多くの会社が導入したのは1980年代後半、バブル景気になってからだと認識している。
63:モンスターズ・インクは、子どもたちを怖がらせて悲鳴をタンクに集め、町へエネルギーを供給する。公益性の高い株式会社。
73:計画的なVIシステムの開発
1950〜1960年代にかけて、CI導入が企業間のブームに。
82:近代を象徴するCI
日本では1970年代にブームを迎えた企業のCI戦略。やがて心理学や経営学、商学がその範疇とするマーケティング論、消費者行動論、広告論などとの結びつきを深めこれによって企業表現の手法は、論理的にいっそう強化された経営コンサルティングの性格をおびて補強されました。
2022年06月14日
シンボルと紋章x映画『20世紀少年』
生物兵器や化学兵器、ロボット兵器まで登場するディストピアな映画なのだが、人類滅亡をたくらむカルト集団の教祖の名前は「ともだち」。ともだちマークは昭和40年代の子どもたちが、オカルトや秘密結社を連想する造形となっている。
原作マンガの作者、浦沢直樹によれば、「1/10くらいが自叙伝」だという。
ノスタルジックに描かれる昭和の子ども文化、夢の巨大ロボットと空飛ぶ円盤、『ノストラダムスの大予言』とオカルトブーム。細かく年代を擦り合わせれば齟齬はあるものの、本作には浦沢本人の原風景、一定の世代が懐かしさを感じる最大公約数が描かれます。
49:人々を惹きつけるための造形性や美的な魅力は不可欠だが、形状の有用性や有益性といった外面的な価値を超えた、人間の感情によって生成される内面的な価値がシンボルマークの本質
2022年06月13日
視覚言語と物語の構造
「映画のなかのロゴマーク」をテーマにした珍しい本。出版社も、水曜社って

はじめに:映画のなかの標章
―乎弔良絃呂どのような考えのもとに成立しているのか
∋覲亳生譴領呂鯡世蕕にする
23:古代エジプトの旗標
旗は人が共同体をつくる歴史とともにあった。
歴史上、確認されている最も古いものは、紀元前3000年前後の古代エジプトの「旗標」。
ポールの先端に彫刻が施された木製の旗。
ナルメル王のパレット(旗標を高く掲げた4人の旗手。導かれる王の姿。首のない捕虜の遺体)
ナルメル王のパレット(旗標を高く掲げた4人の旗手。導かれる王の姿。首のない捕虜の遺体)
25:『日本書紀』
火の神を産んで死んだ女神イザナミの霊魂を祭るために「土地の人々は鼓をうち、笛をふき、幡旗をもって歌舞を演じた」(巻1第5段)


2022年06月12日
砧公園の歴史
世田谷区に広がる砧公園。戦前からあったとは知らなかった。
但し、「紀元2600年記念大緑地」として昭和15年に「砧緑地」として誕生したものの、すぐに開戦。可耕地は食料増産に利用されることになる。
そして、戦後は、なんと「農地解放」されて面積が激減する。農地解放の対象になったのは、農地だけかと思ったら、「現実に耕作地となっているものは、農地とみなして、農地解放の対象」になったということ。もともと、東京府が公園にするために買収していたのに、耕作していた農民らに払い下げられるのだ。
如何に、占領軍の力が強かったか、そして、当初のGHQの政策が社会主義的であったか。
そして、その後、砧緑地はゴルフ場になる。それは、払い下げられた敷地を買い戻して本来の公園にしたい東京都には戦後間もない頃で資金がなかった。そこに、東急電鉄から、離作補償費用を東急が出す代わりに、ゴルフ場として使わせてほしいという提案が来る。
そのまま面積が半減したままでは本来の公園にできず、農地を買い戻す予算もない東京都はこの提案を受け入れる。こうして、昭和30年から10年間、パブリックの「砧ゴルフ場」が東急によって運営されている。
「自作農創設特別措置法」は、それが使用目的の決まっている公有地であっても、現実に耕作地となっているものは、農地とみなして、農地解放の対象とした。紀元2600年記念事業として買収した6か所の大緑地は、面積が激減し、甚大なる打撃をこうむった。砧大緑地は約半分になり、ことにひどかったのは、舎人、篠崎両大緑地で、ほとんど全域が解放されてしまった。これは、公園緑地行政の立場からすれば、大損害をこうむったわけで、後年、これを再び買収するというむだを、繰り返すことになる。
1:砧の歴史
「砧」とは、布を打つ石(木)またはその台のこと。見ずに晒しながら打つことで、布目を潰して柔かくし、光沢を出す。
砧を中心としたこの地方では、古くから麻や絹の手作りが行われ、それらの布を光沢を出すために、水辺で晒し、川原の石を砧がわりに用いて打った。このような風習や技術は、もともと中国から朝鮮に伝わり、朝鮮から帰化人たちによって、東国武蔵野国へもたらされたもの。
13:紀元2600年記念大緑地
昭和15年、砧緑地誕生。当時の東京府は、紀元2600年記念事業として、6か所の大緑地設置を決定。
終戦後、「農地解放」による解放割合
砧 81ha 44%
神代 71 73%
小金井 91 43%
舎人 101 95%
水元 169 46%
篠崎 124 89%
23:防空大緑地
昭和12年防空法
陸軍省 防空緑地の設置を重要都市に要望
55:農地解放
戦時中、各大緑地は、逼迫した食糧事情に協力して、可耕地は、挙げて周辺の農業実行組合に貸付け、一定量の生産品を、使用料がわりに供出させ、動物園の動物飼料や、大緑地造成に動員されてきた勤労奉仕隊の中間食に供していたのであるが、終戦後も、食糧増産のため、依然として継続使用させていた。
73:砧ゴルフ場
東京急行電鉄は、戦前、駒沢ゴルフ場(18ホール)と等々力ゴルフ場(9ホール)の2か所のゴルフ場を経営していたが、戦時中、駒沢ゴルフ場は防空緑地として東京府に、また等々力ゴルフ場は研究所用地として内務省に、それぞれ買収され、ゴルフ場の経営を中止していた。
当時、農地解放の際に除外区域として残っていた貸付農地を返還してもらわない限り、リクリエーション施設の整備は、不可能に等しかった。貸付地を取り返すには、離作補償しなくてはならないが、都の財政状態は、そこまでは手が届かない状況にあった。そういう情勢の中で、昭和26年4月、東京急行電鉄から、離作補償を解決するという条件で、砧ゴルフ場の建設と管理についての申請書が都に出された。
昭和29年11月契約
昭和30年7月起工
88:砧ゴルフ場廃止
昭和40年、10年の契約期限満了→更新せず
東京急行電鉄から補償請求→裁判→仮処分→都の異議申立て→一部補償で和解
2022年06月11日
時間の黄昏
本書も佳境に入ってきたのだけど、ますます難しくなってきた💦
451:やがてあらわになるのは量子力学と永遠とががっちりと手を結んだ世界
量子力学は一風変わった夢想家のようなところがあって、起こりうる未来を膨大に想定し、そのうちのどれかの未来がどれだけの確率で実現するかを具体的な数値で示すことにより、現実離れしたヴィジョンに現実的な基礎を与える。
458:量子力学によれば、空間の小領域はどれもみな、つねに量子的な活動の場になっている。たとえばエネルギーをまったく含まないからっぽの空間のように見えても、量子論によれば、その領域に含まれるエネルギーはすばやく上下にゆれ動いている。エネルギーがゼロになるのは、あくまでも平均としてなのだ。
存在の尊さ
500:秩序と意味
自然は治安のよい社会。宇宙は法則にしたがう要素でできている。そんな自然の順法性こそは、本書の中でわれわれがたどってきた旅の基礎。現代物理学の中核をなす重要な方程式は、厳密に物理法則を表している。
504:138億年ほど前に、空間が激烈な膨張を始めた。その膨張する空間の中で、小さいけれども秩序の高いインフラトン場の雲に包まれていたエネルギーが崩れ、斥力的重力のスイッチを切り、空間をさまざまな粒子で満たした。こうして、簡単ないくつかの原子核を合成するための種が蒔かれた。量子の不確定性のために、空間を満たしていた粒子の密度にゆらぎが生じ、周囲よりわずかに密度の高い部分は、重力もわずかに強くなるため、さらに粒子を引き寄せ始めた。そして雪だるま式に物質が増えていき、恒星、惑星、衛星、そしてその他の天体ができた。恒星の中心部で起こる核融合と、恒星同士の衝突という稀に起こる出来事によって、より複雑な原子核が合成された。そうしてできたさまざまな原子核が、形成途上にあった少なくともひとつの惑星に降り注ぎ、その惑星上に、分子ダーウィニズムに導かれて自己複製する能力を獲得した粒子配置が出現した。そうして自己複製する粒子配置がランダムな変化を繰り返すうちに、複製能力の大きなものが環境中に広まっていった。
508:エントロピック・ツーステップと進化論の自然選択は、驚くべき構造を作り出し、秩序から無秩序への道を豊かに彩るが、恒星であれブラックホールであれ、惑星であれ人間であれ、分子であれ原子であれ、物体はすべて、いずれ必ず崩壊する。どれぐらい長持ちするかは、ものによってさまざまだ。しかし、人はみな死ぬということと、人類という種はいずれ絶滅するということ、そして少なくともこの宇宙においては、生命と心はほぼ確実に死に絶えるということは、長い目で見て、物理法則からごく自然に引き出される予想なのである。宇宙の歴史の中で唯一目新しいのは、われわれがそれに気づいていることだ。
2022年06月10日
思考を感じることが、芸術的なプロセス
386:「言葉はあなたに思考を考えさせ、音楽はあなたに感覚を感じさせる。しかし、歌はあなたに思考を感じさせる」(作詞家エドガー・イプセル・ハーバーグ)
考えることは知的で、感じることは情緒的。そして、「思考を感じることが、芸術的なプロセス」
372:音楽は聴覚に寄生している。つまり、遠い過去には先祖たちが生き延びるために役立ったであろう、感情を揺さぶる聴覚の感度の良さにタダ乗りしている。(スティーブン・ピンカー)
375:人類学者エレン・ディサナヤケ
洞窟の壁を装飾するために地下深くに降りて行くにせよ、一心不乱に太鼓を叩いたり、踊ったり歌ったりして別の世界にトランスするにせよ、芸術は宗教と同じく、古代の生活様式に織り込まれていた。そこにこそ、適応に役立つ可能性をはらんだ芸術の役割がある。
378:傑出したピアニストのグレン・グールドの見るところ、バッハの偉大な才能は、「移調、反転、逆行が行われても、あるいはリズムを変えられてもなお、まったく新しい、しかし完全に調和のとれた横顔を見せるような」旋律を生み出す能力に現れている。アインシュタインの偉大な才能は、世界に関するわれわれの知識を構成しているブロックを、それまでとはまったく異なる方法で組み立て直すという、バッハと同じ能力、バッハと同じぐらい超人的な能力に支えられていた。
2022年06月09日
芸術はデザート
芸術はデザート、それも、「パターンにこだわる人間の脳に合わせて作った、栄養という点ではめちゃくちゃなデザートのようなもの」というのは面白いですね

354:実在の完全な記述は、われわれの内的世界を考えることによってしか達成できない
内的世界に存在するのは、「自然現象の恐ろしさや美しさ、夜明けや虹の『約束』、雷鳴の『声』、夏の雨の『おだやかさ』、星の『崇高さ』であって、これらの現象が従う物理法則ではない」(ウィリアム・ジェイムズ)
367:ダーウィン『人間の由来と正選択』1871
彼の同時代人の多くには、人間以外の動物の野獣的行動が、美しさに対する反応によって決定されているなどと言うことがあるとは思えなかった。(中略)人間の美的感性を神からの贈り物と考えてきたアルフレッド・ラッセル・ウォレスにとって、ダーウィンの考えは由々しきことだった。
371:言語芸術を別にして、芸術はすべて、パターンにこだわる人間の脳に合わせて作った、栄養という点ではめちゃくちゃなデザートのようなもの(スティーブン・ピンカー)
2022年06月08日
宗教の始まり
紀元前1000年紀に、インド、中国、ユダヤにわたる地域で、粘り強くて創意豊かな思想家たちが、それまで語り継がれてきた神話と生き方の見直しを行った。それに続いてさまざまな進展が起こったが、そのひとつが、哲学者カール・ヤスパースの言う、「今も人類とともにある、世界宗教の始まり」である。(中略)宗教体系は、追随者たちが物語を書き留め、洞察の中でもとくに質の高いものを選び出し、聖別された預言者たちによって信者たちに伝えられ、世代から世代へと口承されてきた教えを整備して聖典とするうちに、徐々に組織化されていった。
335:サンスクリット語で綴られたヴェーダ(一部は、紀元前1500年)「そのとき、無もなかりき、有もなかりき、空界もなかりき、その上の天もなかりき。何ものか発動せし。いずこにて発動せしか?誰の庇護の下に発動せしか?深くして測るべからざる水は存在せりや?そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼を分かつ標識もなかりき。かの唯一物は、自力によって風なく呼吸せり。これよりほかに何ものも存在せざりき」
336:ヴェーダは、流砂のようにたえまなく移り変わる実在の基礎にある、安定して変わることのない特質を探求
仏教思想
人の知覚は実在を見誤らせるという信念。世界には、一見すると安定して見える特質があるが、真実は、いっさいはたえず変化している。(中略)人間の苦しみの根源は諸行無常を悟れないことにある。
338:仏陀がインドを放浪してたのとほぼ同じ頃、ユダ王国のユダヤ人はバビロニア人にひどい仕打ちを受けて流浪の民となっていた。ユダヤ人の指導者たちは、民族のアイデンティティーを成文化しようとバラバラだった文書を寄せ集め、口承の歴史を聞き取ったものを監修して、初期のヘブライ語聖書を作った。その書物は発展を続けて、アブラハムの宗教の聖典となり、今日では地球上の人口の二人に一人を超える40億人ほどの人たちに実践されている。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は、全知全能にしていたるところに偏在し、あらゆるものを作った唯一の創造者だ。
2022年06月07日
情報と生命力
だから、惑星探査で真っ先に水の存在を調べるんですね。
136:太陽物理学者たちは、太陽の組成に基づき、太陽は第一世代の恒星の孫なのだろうと考えている。第三世代の登場である。しかし、太陽が生まれた場所は、まだよくわかっていない。
140:地軸の傾きを引き起こしたのが、テイアとの激しい衝突だったというのは、十分に考えられることだ。また、惑星との衝突ほどセンセーショナルではないが、地球と月の両方が、小さな隕石の連打に耐えられなければならない時代があった。
145:原子を結合させることで電子の列を満たすというこのプロセスが、われわれが化学反応と呼んでいるものだ。これらは、地球上や生物の体内、そして宇宙のいたるところで起こっている化学反応の典型である。
146:水の電化分布の偏り、つまり水分子の分極は、生命が出現するためには本質的に重要
分極しているおかげで、水はたいていのものを溶かし込むことができる。負に帯電した酸素が位置するV字の頂点は、多少なりとも正の電荷を帯びたものは何でもしっかり捕まえる。一方、正に帯電した水素が位置するV字のふたつの先端は、多少なりとも負の電荷を帯びたものは何でもしっかりと捕まえる。
147:細胞の内部は、ミニチュアの化学実験室のようになっていて、さまざまな成分を迅速に移動させなければならない。それを可能にしているが、水。細胞の重さの70%ほどを占める水は、さまざまなものを運ぶ生命の輸送液体。
2022年06月06日
宇宙の始まりとエントロピー
うーん、理解したとは言い難い。こんなことをずっと考えている人がいるんだね。
1宙の始まりとエントロピー
88:ルメートルの革新的な計算が行われてからの100年間に、彼が創始した宇宙の理論的研究は、彼とは独立に行われたロシアの物理学者アレクサンドル・フリードマンの仕事とともに大きく進展し、地上の望遠鏡と宇宙望遠鏡の観測にもとづく証拠が大量に得られるようになった。
今から140億年ほど前に、観測可能な宇宙全体は非常な高温高密度だったが、その宇宙が膨張を始めた。膨張するにつれて温度は下がり、狂ったように飛び回っていた粒子たちはしだいに静かになり、互いに寄り集まって塊を作った。さらに時間が経つにつれ、それら物質の塊は宇宙のいたるところで、ガス状だったり、ゴツゴツした岩石状だったりと、さまざまな性質の恒星や惑星を創った。
116:熱力学第二法則
重力の影響が小さいとき、熱力学第二法則は、系を均一な状態に向かわせる。構成要素は拡散し、エネルギーは散逸し、エントロピーは増大する。(中略)しかし、重力の影響が無視できなくなるぐらい物質が存在すると、熱力学第二法則はヘアピンカーブを切って方向転換し、系を均一な状態から遠ざける。物質は一方で塊を作り、他方では拡散する。エネルギーも一方に集中し、他方では乏しくなる。
118:重力が触媒となり、核力が遂行するこのバージョンのエントロピック・ツーステップこそは、物質が宇宙のいたるところで踏んでいるステップだ。ビックバンの直後から、宇宙のダンスは主にこれだった。それにより膨大な数の恒星が生まれ、秩序だったその天文学的構造から発せられる熱と光のおかげで、少なくともひとつの惑星に生命が宿った。
2022年06月05日
第10回日経小説大賞受賞作品
第10回日経小説大賞受賞作品。福岡を舞台に、仮想通貨を軸に展開していく。
作者の経歴がなかなか面白い。
1976年大分県日田市生まれ。一橋大学卒業後、旅行会社に勤務。2008年、夫の転職を機に九州へ戻り、タウン誌の広告営業と制作に携わった後、フリーのライターとして活動。
29:宇賀神
「本当に頭のいい若者は、もう日本を捨てていますよ。僕のような暮らしをする20代は僕一人じゃない、大勢いるってことです。どんなに能力が高くても、日本じゃまともに相手してもらえない。日本は能力より年齢や肩書を重視する社会ですからね。起業するにしても、香港やシンガポールなどのオフショアのほうが税金が安くていい。つまり、本来は日本の将来を担うべき才能や資産がどんどん海外へ流出しているんです」
50:清倉
「俺たち世代の多くは、旧来の生きかた、働き方に疑問は感じているが、かといって、IT系の新興企業が示したような新しいレールに乗り切れているかといえば、そうではない。なんだが時代と時代の隙間に転げ落ちたような戸惑いや焦りを抱えつつ、でも、このままどちらにも振り切れず人生を終えるんだろうと、どこかで諦めてもいる」
2022年06月04日
現代美術にみる男性像
昨年、埼玉県立近代美術館と島根県立岩見美術館で開催された同名の企画展の公式図録。展覧会自体開かれていることを知らず、知らない間に終わっていた。
「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」
タイトルは、与謝野晶子のこの短歌から採ったという。これは鎌倉大仏を詠ったものだが、実際の鎌倉大仏は釈迦牟尼ではなく、阿弥陀如来。与謝野晶子が知らなかったはずもなく、阿弥陀如来では字余りになるからか。
タイトルは、与謝野晶子のこの短歌から採ったという。これは鎌倉大仏を詠ったものだが、実際の鎌倉大仏は釈迦牟尼ではなく、阿弥陀如来。与謝野晶子が知らなかったはずもなく、阿弥陀如来では字余りになるからか。
江戸時代から現代まで、日本の男性像の変遷が面白い。そこには変化したものもあるし、変化してないものもある。

15:江戸時代までの日本には男性の肉体に「美」を見いだす習慣がなかった
明治以降に西洋絵画と彫刻が入ってきて意識が変わる。
65:衆道の文化
公家や中世寺院の僧侶に仕えた稚児、武将たちに付き従った小姓など、成人男性の知覚で身の回りの世話をする少年たちの存在。男性ばかりの環境の中で、美しく装った少年たちは時に性的な対象に。年長の男性が若年の男性(若衆)を愛でる衆道の文化は庶民のあいだにも浸透し、若衆の姿は近世の絵画でさかんに描かれた。
2022年06月03日
味噌の分布
魚醤とナレズシの研究 石毛直道、ケネス・ラドル1990
もともとは、醤油もそれぞれの地域で小規模につくられていたが、輸送費が相対的に安くなり、大量生産する醬油メーカーがスーパーマーケットの普及とともに、全国シェアを増やしていく。

「日本の味付けの地域性を語る指標としては、醤油を持ちいるよりも、むしろ味噌で語る方が適切」だという。
335:はやくからマニュファクチャーの商品化した醤油よりも、農家では自家製が原則であった味噌のほうが、その地域における原料の生産条件や気象条件を反映して、地域性をよくしめす食品。
もともとは、醤油もそれぞれの地域で小規模につくられていたが、輸送費が相対的に安くなり、大量生産する醬油メーカーがスーパーマーケットの普及とともに、全国シェアを増やしていく。
336:味噌つくりには、ダイズのほかにコメ・ムギなどが配合される。味噌の種類の分布をおおまかにのべるならば、信州味噌・仙台味噌などの辛口の米味噌は、東北地方、天竜川以東の中部地方と北陸・山陰で利用される。愛知・三重・岐阜の、ダイズのみを原料として使用する豆味噌地帯となっている。その西側の近畿・山陰、四国の近畿寄りの地方は甘口の米味噌地帯で、西京味噌がその代表になっている。四国の西半分、山口県と九州全域は麦味噌地帯である。香川県は甘めの米味噌だが、同じ四国の瀬戸内沿岸でも、隣の愛媛県は麦味噌というのが興味深い。
306:東アジアから東南アジアの島嶼部にまでひろがる魚醤とナレズシの分布圏のなかで、現在、魚介類の発酵食品の種類がもっともおおく、食生活における重要度がたかいのは東南アジア大陸部。
‖舂ι瑤巴舷綉産のさまざまな魚醤が発達している
▲淵譽坤靴話舷綉でつくるのを原則として、第二部でのべたように、大陸部を起源地として、マレー半島部・島嶼部に伝播した可能性がたかい
3せ叉の塩辛はフィリピンでつくられるが、他の地域では一般的ではない
ぞエビ塩辛ペーストは大陸部の沿岸から、マレー半島部・島嶼部にまで分布する

2022年06月02日
魚醬と穀醬
魚醤とナレズシの研究 石毛直道、ケネス・ラドル1990
魚醤研究の名著だが、絶版になっていて、Amazonでの中古出品も無し。
醬は「肉の酒」という意味で、肉や魚から作った「醤」のほうが、穀物から作る「穀醬」より歴史は古い。東アジアでは、製造コストが安く、香りのよい醤油が開発されて、肉醬や魚醬は駆逐されていくが、東南アジアでは漁業資源が豊富で、今でも魚醤のほうがよく使われる。
醬は「肉の酒」という意味で、肉や魚から作った「醤」のほうが、穀物から作る「穀醬」より歴史は古い。東アジアでは、製造コストが安く、香りのよい醤油が開発されて、肉醬や魚醬は駆逐されていくが、東南アジアでは漁業資源が豊富で、今でも魚醤のほうがよく使われる。
352:醬は肉の酒古代中国における「醬」とは、もともとは肉や魚を原料とした発酵製品のこと。醬の文字の構成要素に肉・酒。コウジを入れて発酵させるという製造原理は、酒造法に起源。前漢になるまで穀醬は出現せず、醬といえば、肉醬か魚醤のこと。穀醬には、豉の系列と穀物コウジを使用する系列の二系統。いまのところ中国で穀醬の存在が最初にわかっているのは、豉の系列に属する製品。
まえがき:1980~84年のあいだ、国立民族学博物館で石毛を研究代表者とする共同研究「東アジアの食事文化」がおこなわれ、ラドルはその研究班の一員として参加していた。漁業生態学を専攻するラドルと、食事文化に興味をもつ石毛に共通する研究テーマとして、魚醤をとりあげてみようということになった。
11:魚醤
生の魚介類を主な原料として、塩を加えることによって腐敗を防止しながら保存し、主として原料に含まれる酵素の作用によって筋肉の一部が溶けて構成要素のアミノ酸類に分解することを意図して製造した食品。
動物の死骸を放置しておくと、肉がくさりはてて最後には骨だけになってしまう。そのさいには外界のバクテリアが作用して細胞や組織を分解するばかりではなく、生物の内部からも分解がおこる。たとえ無菌状態で保存しても生物体の分解は進行する。それは、生物が死ぬと体の中にある各種の酵素、とくにタンパク質分解酵素が細胞・組織に作用して無機物に分解してしまうからである。これを自己消化という。
114:庵治町のイカナゴ醤油(香川大学農学部・真部正敏教授)
4〜6月に漁獲されるイカナゴを水洗いし、2〜3石入りの桶に仕込む。桶のなかにイカナゴと塩を交互にいれ、桶の上面を松葉でおおう。落し蓋・重石はしない。イカナゴと塩の量の割合は容量比で1:1、塩分濃度で35〜36度ボーメに調整する。3〜4ヶ月でイカナゴの魚肉・内臓は溶けてしまい、液体化する。これをくみあげて使用する。
181:ナンプラー(タイ)
タイには中国系の住民がおおいが、他の家内工業や商業的活動と同じように、魚醤油・塩辛・小エビ塩辛ペーストを工場生産するさいの業者や魚醤の仲買人のおおくは、中国系住民によって占められている。醤油は中国人の調味料としてタイで製造されるようになったものであるが、現在ではタイ料理にも使われるいっぽう、中国系住民も家庭での日常料理には魚醬油を使うことがおおく、醤油にこだわるのは年寄りの世代だけであるという。

351:魚と大豆の互換性
「畑の肉」とよばれるダイズには、良質の植物性の蛋白質と脂肪が大量にふくまれている。ダイズの蛋白質を構成するアミノ酸のなかで、いちばんおおいのはグルタミン酸である。現在、商品作物としてのダイズの栽培は、アメリカやカナダなどでもおこなわれ、日本にも輸入されているが、伝統的にダイズを栽培してきた地域は、東アジア、ヒマラヤ南麓地帯、東南アジアである。

2022年06月01日
ROEは経営の規律
結局、ソニーの経営危機は、過去の成功体験が忘れられず、あれもこれもと戦線を拡大し、音楽・映画コンテンツやゲーム機のように成功した新事業もあったが、負けけている事業からの撤退が出来なかった事だ。PCやモバイルなど、差別化が難しく、強い競合がある市場でソニーは大手になれなかった。
平井社長は、全事業を分社することにし、分社した上で各事業ごとにROIC目標値を設定する。目標値は事業によって異る。置かれた状況は事業によって違うからだ。本社は経営企画と一部の管理部門、R&Dだけの「小さな本社」とした。
232:\長牽引領域デバイス、ゲーム、映画、音楽。積極的に資本投下。成長投資。安定収益領域デジカメ、ビデオ&サウンド。市場全体では成長が見込みにくいが、差別化。事業変動リスクコントロール領域価格競争が厳しく、投下資本を抑えながら利益の確保。TV、モバイル。
さらに、2015年第二次中期経営計画で売上高の目標をやめる。同時に、ROE>10%とする方針を打ち出す。これは、平井社長の後を継いで現社長になった吉田CFO(当時)の強い進言によるものだという。
230:ソニーのDNA「量から質へ」「ソニーの経営の目標がKANDOの創出にあるなら、ROEは経営の規律」(吉田CFO)
166:「雲の上の人」では伝わらない
ソニー社長を6年間。世界中の拠点を回って70回のタウンホールミーティング。