2022年02月
2022年02月28日
1861国家分裂から開戦までの道のり
南北戦争の背景には、移民時からそもそも入植者の性格が違っていたことがある。北部には、イギリスでの迫害を逃れた清教徒やクエーカーといったプロテスタント各派が集団を作った。
一方、南部の豊かなプランテーションに入植したのは、英国王の信任を受けた貴族やその関係者たちだった。
そうした出自も産業もまるで違う植民地13州は、独立で一旦まとまるが、もともと緩い連合体で、連邦政府の組織はほとんどなかった。
10:気候風土がまるで異なるアメリカの各地域に上陸した植民集団は、それぞれの地域でかなり色合いを異にする社会集団を作り上げていく。
北部地域に根付くことができたのは、清教徒やクエーカーといった、イギリスの国教、イギリス国教会とは相いれない教義を持つキリスト教プロテスタント各派の信仰者たち。彼らは母国でさまざまな迫害を受けるなかで、自らの信仰生活を貫ける新天地を求めて大西洋を渡った人々であった。
11:南部の大規模な奴隷制プランテーション
イギリス国王の信認を得て乗り込んできた、貴族やその関係者たち。バージン・クイーンと呼ばれたエリザベス1世にちなむバージニア、チャールズ1世にちなむカロライナ(チャールズのラテン語読み)、ジョージ2世にちなむジョージアなど、アメリカ南部にそうした英国君主に由来する名の州が多いことは、これらの地域の担い手がどういう性格の人々であったかを如実に示している。
12:産業革命のインパクト
1830イギリス人リチャード・ロバーツが自動ミュール紡績機を発明→綿織物産業界を一変させる生産効率→白人文明圏の服飾事情をガラリと変える→綿花需要爆発
綿花とは、世界でも栽培できる土地が限られる植物
・年間を通して霜が降りない程度に温暖
・水が豊富にある
21世紀の現在でも綿花生産量の6〜7割は、中国、インド、アメリカの3か国。
15:北部の奴隷制度廃止運動家「南部の全奴隷の即時無条件解放」を主張
南部の奴隷農園主たちは、反発。
19:1860年11月6日大統領選挙
共和党の政治家として初めて大統領になったのがエイブラハム・リンカーン。
2022年02月27日
アメリカを二つに裂いた内戦
南北戦争は、アメリカが経験した唯一の内戦で、「世界最初の近代戦」とも言われる。欧州主要国の産業革命後に起こり、兵器の性能も量もそれまでとは格段に上がっていた。それに伴い、これまで世界が経験したことのないほどの大量の戦死者が出た。
当時のアメリカ合衆国の人口は3000万人ほどで、「300万人以上ものアメリカ人が兵士となって戦場に出かけ、そのうちの約60万人が戦死した」。この犠牲者数はアメリカが経験した対外戦争と比べても最大で、「アメリカ独立戦争で出たアメリカ側の戦死者は25千人ほどであり、第二次世界大戦では約40万人、ベトナム戦争では約5万人だった」。第二次世界大戦の時の人口は、1億3000万人であったことにも留意が必要だ。
そして、特筆すべきは、この内戦がアメリカという国の在り方を根本的に変えたということだ。
南北戦争はアメリカ合衆国という国の姿も大きく変えた。(中略)中央政府(合衆国政府)が、国を構成する各州を、ある程度の強制力をもって束ね、率いていける体制ができた。
そもそもアメリカ独立戦争とは、当時の北米大陸にあったイギリス植民地の各地域(州)が、大英帝国に対抗するための同盟を結んで戦ったという性質のものだった。アメリカでは国家の前に州があり、合衆国政府とはそれをまとめるための便宜上のゆるい盟約に過ぎず、よって州の内情に国家が介入するなどのことは原則的に許されず、州がその気になれば、合衆国という盟約から脱退することも自由である。
従来の戦争は、いわば軍隊同士の純粋な力比べであり、そこに民間人はあまり関係せず、一度軍隊が出撃すれば、政治家も将軍たちにある程度のフリーハンドを与えがちであった。しかし北軍の将軍たちは、軍隊よりも南部の都市や農場を焼き払うことが、南部全体の戦意を喪失させる有効な戦略なのだと考え、しばしば銃口を一般市民に向けた。
2022年02月26日
最初の近代戦
南北戦争は、ライフル銃やマシンガン、金属装甲軍艦など当時の大量破壊兵器が登場した初の近代戦だった。
ライフル銃は、それまでの滑空銃に比べて射程距離が飛躍的に長く、殺傷力が高い。なのに、南北双方の将校たちが叩き込まれ(同じ士官学校で教育を受けている)、信じていた戦法は、ナポレオン戦争以来の「戦列歩兵」だった。これは、「密集した横列を組んだ兵隊たちが、同じくそのような陣形を組んだ敵軍と、20-50m程度しか離れていないような距離で前装式の滑空銃を打ち合うもの」。
115:戦場の光景ライフル銃の一斉射撃はお互いの戦列をいっぺんで吹き飛ばし、「決闘のような戦」の後には血の池だけが残った。さらに戦場で即死しなくとも、威力の大きいライフル銃で受けた兵士の傷は、滑空銃で受けた傷よりも大抵重症となった。その大きな傷口から敗血症などの感染病にかかる負傷者が多く、当時の医療技術はそうした感染病を治療できなかったため、戦闘終了後に戦病死する兵士が大量に出た。
こんなことが戦争中盤まで繰り返された。さすがに、生き残った古参兵が、これでは自殺行為だと、自発的に塹壕を掘り始め、戦争後半には人類史上初めての塹壕戦となる。これまでで最も苛烈な塹壕戦は第一次世界大戦だったが、その50年前の話だ。
そして、上述されているように、戦場での戦死者より、銃傷からくる感染症による病死者が、南北双方とも2/3を占めた。
そして、上述されているように、戦場での戦死者より、銃傷からくる感染症による病死者が、南北双方とも2/3を占めた。
58:アナコンダ計画
南部連合に対する経済封鎖作戦。
アメリカは南北を問わず、河川輸送が重要な交通・物流手段。
南部ではミシシッピ川とその支流を航行する川船が地域の大動脈。
72:ユリシーズ・S・グラント(1822~85)
リンカーンに見出されて北軍総司令官となり、南軍を撃破。戦後の1869年に合衆国大統領となるが、軍事以外には何のとりえもなく、汚職が続発するなど、米国史上最低の大統領ともされている。
74:アメリカでは、このワシントン・リッチモンド間で起こった南北の首都攻防戦のことを「東部戦線」と呼び、ケンタッキーなど西部の境界州周辺からミシシッピ川の制河権をめぐる戦いのことを「西部戦線」と呼ぶ。
80:ハンプトンローズの海戦
1862年2月CSSバージニア 南軍の金属装甲軍艦
USSモニター 世界初の回転式砲塔を備えた金属製軍艦
116:塹壕戦
南北戦争の中盤以降、戦場にはこうした兵士たちによる自発的に作られた塹壕や簡易な砦のようなものがそこかしこで見られるようになり、戦いはそれらにこもった兵士たちのにらみ合いを基本とするものにさえなっていく。(中略)悲劇的なことに、南北戦争の時代に塹壕を突破する方法とは、兵士がただ、銃剣を付けたライフル銃を持って肉弾で敵陣に飛び込む以外になかった。

Julian Oliver Davidson (1853-1894) - United States Naval Historical Center, Photo #: NH 45973
この画像データはアメリカ合衆国海軍が ID NH 45973 で公開しているものです。

Julian Oliver Davidson (1853-1894) - United States Naval Historical Center, Photo #: NH 45973
この画像データはアメリカ合衆国海軍が ID NH 45973 で公開しているものです。
2022年02月25日
エピローグ
2005年、単はゴビを去ってから30年後に、再びその地を訪れる。その年、単は中国で最も大きなモバイル通信会社の一つであるチャイナユニコムの社外取締役になり、その一環で中国どこでも希望の場所を視察できることになったのだ。単は、12歳から18歳までを過ごしたゴビ砂漠に行ってみることにする。
砂漠を去ってから、いろいろなことがあった。私はUCバークレーで博士号を取得し、ウォートン校で教え、JPモルガンでマネージングディレクターとして働いた。そして、2005年にはSFを拠点とする大手のPE投資会社TPGのアジア子会社であるNewbridge Capitalのマネージング・パートナーになっていた。
「二狗!」私は叫んだ。
二狗はウランスハイ近くの水漆喰を塗ったコンクリート造りの綺麗な家に住んでいた。しかし、家のなかは散らかり放題だった。寝室には汚い皿が置かれ、ベッドの隣の机の上にはスイカの皮が積み重なっていた。私たちは座り、彼は自分の物語を語った。
(「彼女の上でしばらく横になった」罪で)刑を言い渡された後、二狗は刑務所で4年間を過ごした。彼が釈放された1978年ごろには生産建設兵団は解散しており、知識青年たちはみな自分の生まれ育った街に帰っていった。彼も北京に帰った。しかし、彼は前科があったため、仕事を見つけることができなかった。(中略)
1979年、前の年に権力の座についた小平が「犯罪を厳しく取り締まる」運動を始めた。二狗は彼の前科のほかにはなんの理由もないまま警察に連行され、新疆ウイグル自治区の塔城にある強制労働収容所に送られた。(中略)
二狗はその労働収容所に5年いた。しかし、彼はそこでまったく無為に過ごしていたわけではなかった。彼は収容期間が終わるまでに、通信コースで大学の学位を取得した。
しかし、学位を得ても、収容所から解放されて北京に戻った後、前科があるために、仕事を見つける助けにはならなかった。彼は常に起訴理由を否認していたが、30年前の判決は彼を、刑務所に入り、そこを出て、今度は強制労働収容所に入り、そこを出たら、結局ゴビに戻ってくるという人生に追いやった。彼は地元の女性と結婚して娘を持った。彼の妻と娘はいま、北京で彼の両親と暮らしていた。それは娘に良い教育を受けさせるためだと私は思う。彼の妻と娘はゴビにはもう戻ってきたくないのだろう。だから、彼は一人で暮らしていた。
2022年02月24日
バークレー人民共和国
サンフランシスコ大学でMBAを取得した単は、本来、中国に戻るはずだったが、当然、戻りたくない。そこで一計を案じ、留学をスポンサーしてくれた米アジア財団を上司が訪問したときに、財団から言ってもらうのだ。
「単さんは、優秀な成績でサンフランシスコ大学を卒業しました。UCバークレーが博士課程で受け入れると言っています。いいですよね?」
当時のUCバークレーは左翼的な学生運動の中心。People’s Republic of Barkley(バークレー人民共和国)と呼ばれることもあった。キャンパスでは中華人民共和国がユートピアのように語られ、毛沢東はヒーローのように扱われていた。その中国から命からがら脱出したばかりの単は愕然とする。
488:バークレー人民共和国
次に私を担当する学部の助言者、ジャネット・イエレン教授との面談に行った。彼女の日当たりのいい部屋は適度な広さで、よく整理整頓されていた。彼女は私を温かく迎え、私をたまたま部屋に居合わせた夫のジョージ・アカロフ博士に紹介した。彼は経済学部の教授だった。
490:アカロフ博士
1970年に出版された「レモン市場:品質の不確実性と市場メカニズム」という大きな影響を与えた論文で有名だった。論文は、同じ製品について売り手と買い手の間で価値の評価に差異が生じる原因は「情報の非対称性」にあると説明した。その他の応用のなかでも彼の分析はとりわけ、保険業界が保険商品の価格を設定するための理論的な基礎を築くことに貢献した。この発見とその他の経済理論への貢献により、彼は2001年にノーベル賞を受賞することになった。
502:鉄のカーテン
中国と先進国との生活水準の差は、たとえば、東西ドイツの差よりもずっと大きかった。海外へ勉強に行った多くの中国人学生が決して帰らないことは明らかなように思われた。中国が経済発展のために以前にも増してより優秀な若者を必要としているまさにそのときに、の門戸開放政策が頭脳流出を招くことはほとんど間違いないことのように思われた。
509:博士号取得
私の論文のテーマは、大手の製薬会社とバイオテクノロジーのスタートアップ企業の協働関係だった。何が両社の関係を規定するのかについての実証実験だった。
2022年02月23日
旧金山
外貿学院を優秀な成績で卒業した単は、そのまま学院の講師になる。10年間の文化大革命の間、大学はじめあらゆる学校は閉鎖されており、教師が不足していたのだ。
その間にアメリカとの関係修復が進み、米アジア財団から、学院の教師を1年間アメリカの大学で学ばせるという申し出がある。受け入れ大学は、スタンフォード、UCバークレー、サンフランシスコ大学だったらしいのだが、アメリカの大学について何も知らない学院関係者は、「スタンフォード?知らない。カリフォルニア大学バークレー校?これは分校のようだから、レベルが低いだろう」という理由で、サンフランシスコ大学を選ぶのだった。
大学のレベルから言えば、今も昔も(学部にもよるが)スタンフォードとバークレーが双璧で、サンフランシスコ大学は一段劣る。しかし、単は、サンフランシスコ大学関係者に助けられ、教授から私的奨学金までもらって、1年の留学を延期し、MBA学位まで取得することになる。
因みに、サンフランシスコを中国では「旧金山」と書くらしい。漢字名がある日本の地名は別にして、中国で欧米の地名は基本的に発音が近い漢字を当てて表記する。ところが、サンフランシスコはその街の歴史を表す「旧金山」。19世紀後半に佳境を迎えた米大陸横断鉄道の建設に携わったのは10万人に及ぶ中国人労働者「苦力」。その多くが、サンフランシスコ港に上陸したことから、サンフランシスコには北米最古・最大の中国人街ができる。
単は100年前の同胞の辛苦を思う。
418:1977年7月、小平は中国の新しい指導者、華国鋒のもとで再度、党の指導部に復帰
1966年以来中止になっていた大学入学試験を復活。その年、大学入学試験に1000万人を超す応募があり、最終的に570万人が試験を受けた。そのうち5%を下回る、わずか272,287人が学生として受け入れられた。新たな学生の年齢は13歳から37歳までにわたり、10年間の文化大革命がつくりだした学校教育の空白を映し出していた。
452:サンフランシスコ大学での最初の学期の中頃には、私はキャンパスでちょっとした有名人になっていた。誰も紅い中国から来た人間と会ったことがなかったので、多くの人が好奇心に駆られて私と話をしたがった。しばらくの間、彼らはかわるがわる私のいるところに顔を出した。(中略)私はまるでパンダになったような気がした。
456:文化大革命は恣意性の好例
彼に先立つ皇帝たちの言葉が法であったように、毛の言葉が法であった。毛時代の混乱が終わりを告げたいまでも、法律、政策、ルールは恣意的に、あるいは突然、変わりえた。
470:当時、中国の大きな都市には実質的に私有地はなかったが、無関係の人が入り込まないように、すべての居住区や作業所は高い壁で取り囲まれていた。北京にはいたるところに壁があり、最も大きく高い壁は中央政府がある中南海を取り囲む壁だった。ここアメリカでは壁はほとんどなく、個人の家の前には芝生が広がっているだけだった。しかし、人々は習慣として私有地を尊重していた。実質的に私有地のない北京では壁が必要で、土地がすべて私有地であるグリニッチで壁が必要ないとは皮肉だと思った。
2022年02月22日
小平
文化大革命はようやく終盤となり、学校が再開し始める。単はゴビ砂漠の部隊から大学に応募するが、初年度は推薦枠に入らなかった。
部隊の内情を告発した手紙が問題にされたのだ。翌年までに、部隊幹部に気に入られるよう努め、ようやく北京の外貿学院ヘ入学が許可される。
6年ぶりの北京では、小平が共産党に返り咲き、改革開放路線が始まっていた。
386:小平
は身長1.5mしかなく、小男だったが、強い意志の持ち主だった。党内での長いキャリアにおいて、文化大革命中の流刑をはじめとして多くの挫折を経験したが、政治的に生き延びた。かつて毛は彼を評して、「針が入った綿の球」といった。
389:「悪い」家族の出身者は将来を厳しく制限され、問題のある家族の子どもは人生で大きなチャンスを得ることができなかった。
393:外貿学院
私たちのなかには長く正規の教育を受けた者はいなかった。だが、私は少なくとも小学校を卒業していた。ほとんどのクラスメートはそこまで行く前に学校が閉鎖されてしまったので、基礎的な教育すら受けていなかった。
396:私がゴビから戻った頃には、北京にアメリカの連絡事務所が設置されており、連絡事務所はGeorge H.W. Bushという人当たりのいい元石油会社役員によって運営されていた。彼は夫人のバーバラ・ブッシュを乗せて市内を自転車で走り回ることで有名だった。
409:1949年に共産党が権力を獲得して以来、毛は救世主としての地位を享受してきた。その破滅的な政策にもかかわらず、国民の間における彼の名声は衰えなかった。実際には、それは強化、神話化され、目の眩むような高さにまで持ち上げられた。文化大革命の開始により、彼は神のように崇拝されるようになった。
415:四人組逮捕
北京はお祝いムードに沸き立った。人々は喜び合うために路上にあふれた。市中では酒が一日のうちに一滴残らず売り切れた。
2022年02月21日
砂漠で見た大学への夢
一時期、師団で「裸足の医者」になっていた単。西洋医学の研修はたった5週間だけだったが、師団に戻ってから先輩の医者から学んだ中には、漢方の治療もあった。
その中に出てきた「刮痧(グアシャ)」というのは、私もやってもらったことがある。あれは、25年くらい前に家族で米国旅行したときだったと思う。LA郊外のベトナム人華僑一家のところで泊めてもらったのだが、私はその前の訪問先ボストンからの移動中に悪性の風邪に罹ったようで、熱があった。
その華僑の友人が、私を上半身裸にして、大きめのスプーンで背中を擦り始めた。これを10分もやっただろうか。なんだか、こもっていた熱がスッと下がったような気がした。おかしなことをするな、と思ったのだが、「これは中国伝来の治療法なのだ」という。あの時のあれは、これだったのか!と今回思い当たった次第。
結局、私の体調はそれだけでは直らず、翌日ディズニーランドに向かった家族に置かれて、1日寝込んだ。本書では、「硬貨を水に浸して」とあるが、スプーンでもいいのだろう。
321:刮とは、引っ掻く、こする、を意味し、痧は、発疹または赤いおでき。
患者はベッドにうつぶせに寝る。医者は硬貨を持ち、それを水に浸して患者の背中を何度となく引っ掻く。効果が皮膚を傷つけないように一回ごとに硬貨を見ずに浸す。しばらくすると、背中は真っ赤になる。中国医学の理論によると、咳のようなある種の病気は、寒と暖、あるいは陰と陽のアンバランスの結果である。刮痧は体内から熱い「火」を取り除き、バランスを取り戻させる。
357:毛は漢王朝の初代皇帝のように、彼自身は驚くべき博識の人であったにもかかわらず、知識人に対して侮蔑の念を抱いていた。彼は正規の教育制度を、若い魂に革命に反する古い考えを吹き込むものとして嫌悪していた。
362:ほとんどの人はずいぶん前に定期的に畑に出て働くのをやめていた。150人の男子のうち、毎日働きに出る者はおそらく20人くらいだった。私はその20人のうちの一人だった。
2022年02月20日
キャンベルスープ
コカ・コーラと並んで、アメリカ食文化の象徴ともいえるキャンベルスープ。アンディ・ウォーホルの絵で有名だが、では、日本人でどれだけ食べた人がいるだろう?
本書の著者である四方田先生はNYに住んでいたこともあるのだが、一度も食べたことがなかったそうだ。それはそうだろう。人種のるつぼのNYには世界各国の美味しい食品がすぐそこにある。
私はかつてMAの田舎に住んでいたが、週末に車で1時間のボストンに行けば、中華街もユダヤ人街も、イタリア人街もある。わざわざ缶詰を食べようとは思わなかった。
四方田先生は、本書を書くために、キャンベルスープを入手し、編集部も含めて10人ほどで食べてみたそうだ。
「試食の感想をまとめて報告すると、トマト味のものは、ストレートタイプのものも、ライス入りのものも、全体的に甘くて柔らかい感触である。(中略)チキンヌードルは、日夜カップヌードルの類で舌を磨いて(?)いる日本人には、麺の柔らかさがどうにも納得できない。何十ものエスニック集団をかかえたアメリカで、誰もがそれなりに受け入れられる味を考案すると、たぶんこうした感じになるのだろう」
私も、チキンヌードルを一度だけ食べた覚えがあるのだが、全く同じ感想。ヌードルの頼りなさと言ったら、細いだけに伊勢うどん以上だ。
不思議だったのは、アメリカの美味いイタリアンに行っても、パスタだけは柔らかすぎること。おそらく、当初はイタリア系だけを相手にアルデンテだったのだろうが、客層が広がるうち、「硬すぎる」と言われて、こうなったのだろうか

48:アンディ・ウォーホル(1928~87)
チェコスロヴァキアの貧しい農民を両親に持ち、ピッツバーグの工科大学を出て、高校の美術教師を目指したが、あっけなく断られた。その後、一念発起してNYに移る。ロアー・イーストサイドのボロアパートで貧乏生活を続けながら、商業デザイナーとして頭角を現した。
51:Campbell
1869年に、NJの青果商ジョセフ・キャンベルが知人と共同出資で缶詰会社を設立。1897年に濃縮スープの開発に成功、翌年に赤白ラベルのデザインのスープ缶が発売された。
55:キャンベルスープの、どこまでも深みを欠いた風味は、このウォーホルの理想とする匿名性に、みごとに見合っているように感じられる。どの缶の中身も、最終的に同じに思えてくる。どこで食べても、いつ食べても、また誰が食べても、つねに変わらぬ味という概念。19世紀が終わろうとすることにそれを実現させたキャンベル社は、すでに半世紀後のポップアートの到来を予言していたのではないだろうか。世界中から差異という差異を消滅させてしまえというアメリカ的なるものの意志が、そこには明確に感じられる。
2022年02月19日
多くの芸術家は食いしん坊だった
古今東西の芸術家が食べていたものを再現し、実際に食べてみるという本。
まえがき:歴史を振り返ってみるなら、多くの芸術家は食いしん坊だった。それは単に食欲の問題である以上に、彼らが生来的に抱いていた、世界に対する貪欲な好奇心に見合っていた。ある者たちは優れたレシピ集を残し、別の者たちは後世の伝記を通して、その健啖ぶりが伝えられた。彼らは、洋の東西を問わず、ラブレーの子供たちなのである。
第一章「ロラン・バルトの天ぷら」から始まる。ロラン・バルトは知らなかったが、日本文化の本質を見抜くその感性と、またそれを分かりやすく言い換える四方田犬彦の筆力がスゴイ。
ロラン・バルト(1915~80)フランスの文芸評論家で記号学者。『記号の国』
11:日本という社会は、これまで自分が体験してきたどこの社会とも違っていると、バルトは溜息をつく。ここには外側だけがあって、実質に満ちた中心というものがない。(中略)記号の表面だけがどこまで重視され、内容が空虚のままに取り残されている社会。それは自分を長らく縛り付けていた西洋文明のもつ記号のあり方からすれば、まるでユートピアのような場所。
13:天ぷらには、いかなる揚げものも獲得できなかった、すがすがしさという特性がある
地中海料理も中華料理もともに油の重さから自由ではないが、唯一、天ぷらだけがそれから自由である。
「お客がお金を出して求めるのは、食材でもなければ、その新鮮さでもなく、揚げかたの清らかさなのである」
「油の処女性」
かつてポルトガルからもたらされたこの料理は、数百年のうちに完全に作り変えられた。それは一瞬のうちに生まれ、空気のように軽やかな、脆弱にして新鮮な食べ物、無のかたわらにある食べものへと変貌した。それは記号の空虚を示していると、バルト先生は託宣する。
2022年02月18日
毛への嘆願書
ゴビ砂漠の生産建設兵団で重労働に就いていた単。何かの役に立っているならともかく、兵団は地域から搾取し、生産するより多くの食料を消費していた。
ついに我慢できなくなり、北京に嘆願することにする。読んでくれるかどうかは分からないが、あて先は、毛沢東本人だ。
部隊の郵便では、検閲されて没収され、懲罰を与えられ、最悪殺されるかもしれない。そこで、部隊外から郵送することにする。
結果は、変わらなかった。毛沢東がその手紙を読むことはなく、北京の生産建設兵団担当に読まれ、その内容は部隊に知らされた。
305:もし私がゴビで何か学んだとしたら、それはあらゆる種類の権威、特に自ら権威であると主張する者たちに対して常に懐疑的であれということだ。だが、その時点では、私たちの多くがまだ毛と周総理を信じていた。彼らはシステムで起きていることについて何も知らされていないのだ、と私たちは思っていた。
310:「私たちは国を憂慮しており、ある重大な問題に対するあなたの注意を促したいと考えています」続いて手紙は、冷静な分析と情熱的な嘆願をあわせた記述になった。「こうした生産建設兵団の状況が続くことは許されるべきではありません」
生産建設兵団「三つの害」
(蔀弔麓禺圓燭舛砲箸辰導
いかなる種類の教育も行われていない。私たちは何も学んでいない。
∧蔀弔麓匆颪砲箸辰導
周辺の地域にもたらした損害。十分な食料がないので、農民から盗む。(中略)彼らは私たちを大変憎んでおり、国民党軍より、いや山賊より悪いと言っている。
J蔀弔蝋餡箸砲箸辰導
何も生産していないし、自分たちの消費と費用をまかなうに十分な量を生み出すことができない。
2022年02月17日
裸足の医者(赤脚医生)
ゴビ砂漠に「下放」された単。日々の重労働のなかでも、自由時間には本を読んでいた。勉強好きだと見込まれ、「裸足の医者」に任命される。
しかし、医者になるための訓練はたった5週間で終わってしまう。予定されていた3か月でも信じられないほど短いが、部隊指導者の認識としては、自分たち幹部は本物の医者に診てもらえるし、都市から集められた少年少女に医療を提供する必要など感じてなかったのだ。234:裸足の医者(赤脚医生)中華人民共和国の創設後の1950年、中国の平均寿命は41.6歳だった。1960年の大飢饉の際には31.6歳にまで下がった。(中略)農村地帯に「医者は居ない、薬は足りない」といわれていた。毛沢東は農民や民間薬剤師に基礎的な医学の訓練を施すことによって、農村に医療をもたらす方策を強力に推進した。
246:訓練コースは3か月間と予定されていたが、どうやら連帯指導部は裸足の医者の訓練にそれほどの時間は必要ないと判断したらしかった。講師たちはすべての授業を5週間に詰め込まざるをえなかった。医療の専門性を少しつかむことができた気がしたちょうどそのときに訓練は終了した。
もともと賢かった単は、訓練が終わった後も自分で勉強を続け、診察も上達する。共産党から部隊に派遣されていた政治委員は、「神経痛」だとして、労働を免れていた。単は彼を診察した結果、仮病だと見破る。それを公表しようとした途端、単は「裸足の医者」の任を解かれ、元の重労働に戻る。
240:五臓六腑中国医学の「心臓病」には不眠症、精神障害、鼻血、早漏が含まれていた。高血圧の概念は存在しなかった。
2022年02月16日
ゴビ砂漠への下放
毛沢東が文化大革命で構想した「生産建設兵団」。日本でいう屯田兵みたいなもので、当時関係の悪化していたソ連との国境近くに、都市から「下放」された若者が送られた。
154:下放文化大革命の間に、都市の人口の約10%に当たる1600万人の知識青年が農村、特に辺境の国境地帯や貧しい地方に送られたと推定されて世界のほかの国々が都市化へのプロセスをたどっていたのに、中国は独自にその逆の道を行き、何百万人という若い都市居住者を貧しい農村地方へ強制的に移住させた。政府の新聞は文化大革命を「歴史上、先例のないもの」と称賛した。
日頃農業で自給自足しながら、侵略に備えるという組織だったが、幹部は全員農業のことなど何も知らない将兵。指示はまるで意味をなさず、場当たり的。それを実施する隊員も単のように都会出身で何も知らなかった。
138:1969年10月の半ば、穀物の収穫これは、スゴイ。それまでの10倍の労働力を投入して、約1/10の収穫しか得られなかったので、労働生産性としては1/100の計算となる。750tの種を蒔いて、70tしか収穫できなかったのだから、それなら、何もせずに、種をそのまま食べた方がいい。食料が元々足りていない時代の話である。
我が中隊の収穫量は年間わずか70tだった。私たちが来る前は、たった十数人の農民が500tを生産していた。しかも、私たち300人もの若者が畑をおおいに拡張したので、私たちは彼らよりもはるかに広い土地を相手にしていた。さらに悪いことに、私たちは750tの種を蒔いていた。つまり、土地を耕すための諸費用はもちろんのこと、1年間の重労働、大量の肥料、数えきれない機械作業の時間を費やして、私たちの全収穫高は蒔いた種の1/10にしかならなかった。
159:空腹に駆られて、私たちは手に入るものはなんでも食べた。迷い犬を見つければ、それを食べた。迷い猫を見つければ、それを食べた。(中略)一頭の馬が死んで、その死骸が屋外の近くに横たわっていた。誰もが死んだ馬を食べたいわけではなかったが、私を含めて何人かが死骸から肉を切り取った。私たちは何日も続けてそれを食べた。実は、社会主義体制で大飢饉が起こったのはこれが初めてではない。社会主義体制では、「計画経済」の元、全てが計画される。しかし、さまざまな理由で計画通りに物事は進まない。資本主義なら、その予兆があると直ちに市場の調整機能が働き、穀物なら穀物の価格が上がる。価格が上がると、より生産量を上げようと生産者が工夫する。
200:ロシア革命1917年のボルシェビキ革命後しばらくすると、レーニンは社会主義の経済政策は機能しないことを思い知った。後に続いたのは飢饉の蔓延だったのだ。1921年、彼は「新経済政策(ネップ)」すなわち「国家資本主義」を導入し、一部の私的企業と私的農業を容認した。
しかし、「生産建設兵団」のような組織では、組織目的があいまいで、適切な指導者もおらず、指導者のインセンティブや評価体系も不適切だった。そのため、生産性は一向に上がらないまま、国中で餓死者を出しながら、こんな状態が6年も続いたのである。
ソ連は、ロシア革命後数年で飢饉が蔓延し、一部の私的企業と私的農業を容認した。中国は、それを「修正主義」と批判し、1950年の国家建設以来、「大躍進政策」「文化大革命」と20年以上もそれを続けたのである。
64:無政府状態毛(沢東)は欣喜雀躍した。「地上のすべてが混乱している。この状態は素晴らしい」と公言した。彼は造反派が旧秩序と自分自身の政府を革命的な熱狂をもって粉砕するのを満足げに見ていた。「偉大な混乱は偉大な規律を生む」と自信をもって予言した。
2022年02月15日
切り上げられた学校生活
文化大革命が始まると、学校は無法地帯と化していく。毛沢東は大躍進政策での失敗から、自分の政治基盤が弱くなることを恐れ、この政治キャンペーンを始めた。
「造反有理」(反抗するには理由がある)と生徒・学生たちを煽り、自らの政治闘争のために、反対派を「反革命分子」として攻撃させたのだ。
小学校を出たばかりの単は、最初は、そのお祭り気分を楽しんでいたが、運動はどんどんエスカレートしていく。1966年、北京市内のある女子中学校で、女子生徒たちが一人の中年女性に暴行している現場に出くわす。女子生徒たちは集団で、ベルトを鞭にして、バックルで女性を痛めつけていた。
死んだ女性は、その女子中学生の副校長だったと後にわかった。
40:反右運動
このキャンペーンの結果、多くの著名な学者、作家、科学者、社会活動家を含む100万人以上の人々が「右派」の反革命分子とか、人民の敵などの汚名を着せられ、降格や追放になり、場合によっては投獄されることもあった。20年後、毛沢東が死ぬまで、彼らが公式に復権することはなかった。そのときにはすでに、彼らと彼らの家族の生活は破滅していた。
49:造反有理
紅衛兵たちが何をしでかそうと、その革命的な行動を止める勇気のあるものはいなかった。数か月の間に非常に多数の死者が出た。噂によれば、市の火葬場はフル稼働で、次々にトラックで運び込まれる死体の山を処理しきれないという事だった。
57:紅五類
誰もが紅衛兵になれるというわけではなかった。加入するためには、学生と言えども、革命幹部、工場労働者、貧農などを含む「プロレタリアート」家庭の出身でなければなかった。(中略)多くの紅衛兵のリーダーたちは、特に中学校では、高級幹部の子弟だった。(中略)多くの高級幹部の子弟が紅衛兵の最も独善的で自信過剰なメンバーであり、最も残忍で野蛮なのも彼らであった。
2022年02月14日
人がもたらした飢饉
著者・単偉建は1953年北京生まれ。中華人民共和国の建国が1950年だから、それから3年後。中国では間もなく、「大躍進政策」が始まる。大躍進はその後、「大飢饉」をもたらす。
なぜかと言えば、毛沢東が「鉄鋼生産量で、5年でイギリスを抜き、10年でアメリカを抜く」という無謀な目標を立てたからだ。共産党の一党独裁下で、絶対権力者が目標を立てれば、それに反対するものなどいなかった。
そして、その目標は広い中国の隅々に行きわたるうちに、表面的な数字合わせになる。地方の役人は、中央官僚にいい顔をしたいために、政策の意味も分からず目標達成を優先させた結果、全国民が生活道具も農機具も鉄製のものは全部溶かしてしまって、できたモノは何の役にも立たない鉄くずだった。
その間に、穀物の15%が畑で腐り、「1958年から1962年の間に、中国の人口の3〜5%に当たる2000万人から3600万人が死亡したと推定される」。
その大失敗を糊塗するため、毛沢東が1962年ごろから始めたのが、文化大革命。「学校は不要」「労働者から学べ」とされたこの運動で、全ての学校は閉鎖されてしまう。単はそのために、小学校卒業後中学校に行けず、ゴビ砂漠での重労働に就くことになる。その生活は6年に及ぶ。
文化大革命がようやく終わり、北京に戻って大学に行けた単。ゴビ砂漠でも寸暇を惜しんで、独学を続けていたおかげだ。そして、米中関係修復で米国留学のチャンスが訪れる。サンフランシスコ大学でMBAを取り、さらにUCバークレーでPhD。ペンシルバニア大学ウォートン校に就職し教授となる。
その後、ウォール街に転じた単は、JPモルガンやアメリカ屈指の投資会社TPGで中国投資に携わる。現在は、TPGグループのアジア投資子会社PAGの会長兼CEO。政治に翻弄され、中学校、高校にも行けなかった青年のシンデレラストーリー。
11:中国は1958年の鉄鋼生産量を1957年よりも10%増やしただけだったが、その増産分がどれほど有益だったのか、誰にも分からない。推定1億人の農民、公務員、学校の教師、学生がその年に裏庭で鉄鋼生産に従事し、他の製品(食料を含む)の生産の場から資源と労働力が奪われた。その結果、農業労働力が不足し、農業生産物を収穫することができなかったため、穀物の15%が畑で腐り、それが国を飲み込んだ大飢饉の直接の原因になった。
12:鳥は基本的に北京から姿を消した
人民日報は1958年4月20日、首都の300万人が4月19日の作戦に参加し、午後10時までに8万3000羽の雀がこの人民戦争の波に飲まれて命を落としたと報じた。北京の住民は3日間で40万羽を超える雀を殺した。
スズメや他の鳥は穀物だけではなく、イナゴなどの作物を食べる昆虫も食べるので、害虫ではなく実際には「よい」鳥であることがすぐに明らかになった。鳥が殺されると、天敵をなくした昆虫の数が爆発的に増え、作物に被害を与えたのだ。
16:大躍進→大飢饉
1958年末までに、中国郊外の広大な地域ですでに食糧不足が広がっていた。その後の数年間で数百万人が飢餓で亡くなった。信頼できる研究によれば、1958年から1962年の間に、中国の人口の3〜5%に当たる2000万人から3600万人が死亡したと推定される。
22:1962年の夏、国家主席の劉少奇は、珍しく狼狽して毛沢東にこういった。
「多くの人々が餓死しました。歴史はあなたと私をその責任者として記録するでしょう。人が人を食らっていた。それは年代記に記されるでしょう」
毛との確執は彼の破滅の原因となり、約7年後の失脚と悲劇的な死につながった。
2022年02月13日
人間国宝
先週読んだ上巻「青春篇」の続きで、下巻「花道篇」。長崎でヤクザの家に生まれたものの、中学生の時に親分だった父親が抗争で殺される。その場に居合わせた上方歌舞伎役者との縁で、15歳で歌舞伎の道に入り、女形としての天賦の才を見出される。
しかし、その後見人が早く亡くなると、血筋の大事な歌舞伎の世界で、不遇となり、役が回ってこない。仕方なく、新派の舞台に出て人気俳優となるものの、時代はヤクザに厳しくなっており、その出目、関係が問題となり、その道も閉ざされる。
後に人間国宝となる歌舞伎役者の一代記。その間の出会い、別れが複雑に絡み合った大河ドラマで圧倒される。これまで歌舞伎には縁がなかったが、これを読んで、がぜん見てみたくなった。
最後の献辞、「この作品を亡き父に捧ぐ」が、気になる。
68:弁天
「唯一、王様を笑えんのが芸人の特権」
72:堅気とヤクザの違い
真面目なイメージの堅気のほうが、実は要所要所できちんと手を抜くことができる。一方、堅気でない人間は、なぜか総じてそれができないので、結果、何をやっても自滅する。
小狡いのが堅気、一方、小狡くなれず、結局、大狡くなるしかないのがヤクザな人間。
258:先代白虎
「女形というのは男が女を真似るのではなく、男がいったん女に化けて、その女をも脱ぎ去ったあとに残る形である」
387:喜久雄
「役者をやめられる役者なんているのかねえ」
役者が仕事であるならば、いくらでもやめることは可能。しかし、もし役者がその人の性根のことであるならば、いったいどこに性根を入れ替えられる人間などいるか。
2022年02月11日
想像力のディスクール
東京大学東洋文化研究所の中島教授による最新作。東大エグゼクティブ・マネジメントで、「世界の語り方」を講義されている。
過去の危機の時代においてなされた批判を取り上げ、そこにおいていかなるディスクールが紡ぎだされたかを見る(はじめに)という趣旨の本。
なのだが、今回のコロナ騒ぎを見ても、マスコミはいたずらに危機を煽り、にもかかわらず、日本は世界で突出してマスコミへの信頼度が高く、毎日の「大本営発表」を見ては、意味のない感染者数に一喜一憂している。生の危機と好機問われているのは、危機の語り方であり捉え方。危機を利用するのでもなく、危機を見ずにすませるのでもなく、危機を克服するために、危機をどう摑まえるのかが重要(はじめに)
何が重要かを整理して伝え、国民生活の基盤である経済とのバランスをとるべき政治が、コロナ危機を利用し、大盤振る舞いを競うような態度も目立った。その結果、犠牲者は世界最低レベルなのに、対策費は世界最高レベルで、コロナ死亡者一人当たり20億円かかった計算になるらしい。これは、諸外国の100倍以上だという。
イメージと批判
想像力:イメージは、わたしたちの知覚に基づいてはいるが、しばしば知覚をはみ出す。そのために、イメージは知覚の自明性や確実性を揺さぶり、知覚しえないもの、知覚が及ばないものへの通路を開く。たとえば念仏。それはもともとは仏をありありとイメージするプラクシスであって、直接的な知覚にとどまらない、現実の複数の層を明らかにするもの。
2022年02月10日
地平線の比較文学〜フォード・黒沢・宮崎駿
荒海や佐渡によこたう天河
暑き日を海に入れたり最上川
松尾芭蕉『奥の細道』
なるほど、確かに芭蕉は「地平線」による空間の広がりを感じさせる。
328:カメラの本質はもともと飛翔にある〜詩と映画の深い関係
朔太郎にとって詩とは物を見る手段。映画も同じであると直感?
地平線を軸に、ジョン・フォードが西部劇を、黒澤明が時代劇を、そして宮崎駿がアニメーションを確立していく。
336:フォード・黒沢・宮崎駿
「風の谷のナウシカ」の冒頭は、レオーネの「荒野の用心棒」を思わせ、それがさらに、当然のことながら黒澤の「用心棒」を、またフォードの「荒野の決闘」を思わせる。あるいは、「もののけ姫」のサンの登場は、黒澤の「隠し砦の三悪人」の雪姫を思わせ、その隠し砦の岩場は、これもまた必然的に、フォードの「駅馬車」や「荒野の決闘」に映し出された、かのモニュメント・ヴァレーのことを思わせずにおかない。
345:舞踏の地平線
「ペジャール、テラヤマ、ピナ・バウシュ」それぞれ1960年代、70年代、80年代の世界の舞踏シーンに決定的影響を与えたコリオグラファーたち。
この3人が行ったことは、黒澤が「用心棒」で見せた「神社の鳥居を背に十人横並び」の迫力を舞台上で再現すること。
348:映画が演劇よりも詩に近いのはなぜか
朔太郎は映画に舞踏を見出した。朔太郎は映画に詩と同じものを見出した。
詩と舞踏は同じ場所、すなわち生と死を結ぶ場所から生まれた。同じことが映画にも言える。
詩や舞踏や映画においては鮮明に登場する地平線が、なぜ小説や演劇においては登場しないのか?詩や舞踏や映画に比べて、小説や演劇は新しい。小説や演劇は近現代。詩や舞踏や映画は、近現代に属すと同時に、古代、というより神話に属している。
352:SFという表現領域は近現代の小説よりはるかに神話の世界に近い
現代中国文学がSFにおいて活性化しているのは、現代中国が18世紀、19世紀の西洋体験、西洋現代文学体験を経ることなく、いわば古代中国文学の伝統がそのまま21世紀に接続してしまったから。中国文学、中国芸術には近代が欠落している。中国現代SFの世界に人権意識が欠如しているのも同じ理由。
355:地平線の比較文学〜芭蕉・蕪村、そして定家
2022年02月09日
内面空間としての地平線「千と千尋の神隠し」
飛ぶことと地平線とは切っても切り離せない。私もこれまで2度ほど、小型機に乗って操縦席から地平線を見たことがある。地上から離れると非常に心細く、地平線を常に意識する。
ジェームズ・ギブソンは第二次世界大戦中に米空軍パイロットの離着陸訓練に心理学者としてたずさわり、「生態学的視覚論」を確立した。ギブソンの発見の要諦は、「パイロットは空間把握を遠近法にもとづいて行っているのではない、地平線との関係において行っている」ということ。
そしてそれはパイロットだけではない、「あらゆる人間が行っていること」だという。「地平線は、遠近法の水平軸のように静止したものとして把握されるのではなく、動きの最中、外界を埋める事物の濃淡や粗密によって把握される」と言われれば、思い当たるのではないだろうか。
例えば、スキーの時、コースとスピードに寄るが、視点は常に10m以上先だ。そうでないと、障害物や凹凸に対応できない。焦点の当たってない手前はぼやけるが、先に入ってきた視覚情報と齟齬がないか確認され、誤りがあれば訂正され、対応がとられる。
282:内面とは解釈空間
「恋愛の地平線」三部作〜「未来少年コナン」「天空の城ラピュタ」「ハウルの動く城」
299:必ず地平線が出てくる
それが強く印象付けられるのは、たいていの作品において、主人公が何らかのかたちでほとんど必ず飛ぶから。飛ばない場合でも、それこそ「翔ぶが如く」に、走る。「母をたずねて三千里」のマルコがそう。
301:地平線が内面空間に転じる仕組み「ジェームズ・ギブソン生態学的視覚論」
パイロットは空間把握を遠近法にもとづいて行っているのではない、地平線との関係において行っている。そしてそれはパイロットだけではない、あらゆる人間が行っていること。
318:音楽が近代的内面性を一般化した
真面目なドイツにおいて、音楽は内省的に聴くべきものへと変容。ベートーヴェンにおいて音楽は楽しんで聴くものから謹んで聴くものへと変わった。ヴァグナーはその流儀をオペラにまで拡大。オペラの鑑賞の仕方そのものを変えた。
2022年02月08日
地平線と火の接吻の物語「ハウルの動く城」
「人間だけが動物を家畜化できた理由」というのが面白い。
「地平線を発明した人間」は、人間の関係性も発明し直した。その想像力は、動物の気持ちも推察し、その結果、人間だけが動物を家畜化できたというのだ。227:人間だけが動物を家畜化できた理由人間のほうからその動物のほうに歩み寄り、乗り移ったからで、逆ではない。人間は、地平線を発明した段階で、母も子も父も兄弟姉妹も、みな新たに発明し直した。
これが生物学的に正しいのかどうかは分からない。ただ、ペットとこれだけ心を通わせる飼い主が多いことを思うと、そんな気がしてくる。
230:たんに世界の辺縁としてあった地平線が、一度失われ、その後に、人間によって発明された新たな地平線として再び登場する
その三段階が、「未来少年コナン」「天空の城ラピュタ」「ハウルの動く城」。
「ハウルの動く城」にいたって地平線が人間的地平線となって、地平線的存在である人間の本質が回復される。
280:「ハウルの動く城」は、自分自身が地平線と火の接吻の物語
ソフィーは第三の火、人類がいまなお発明していない、まったく新しい火のためにカルシファーに接吻した?人類に新しい地平線の可能性を示す。
2022年02月07日
恋愛の地平線〜「天空の城ラピュタ」
後にジブリで映画化されたル=グウィン『ゲド戦記』では、魔法使いたちが真の名にこだわる。同じくジブリの『千と千尋の神隠し』では、千尋が「千」になった。
我々が著者名として覚えている「清少納言や紫式部」は、父兄の役職名を借りた仇名のようなものらしい。そういわれてみれば、確かに、女性名というより官職だ。これは、「真の名を明かすことは、明かした相手に身を委ねることに等しかった」ため、一般的に名前を明かさなかったらしい。
我々が著者名として覚えている「清少納言や紫式部」は、父兄の役職名を借りた仇名のようなものらしい。そういわれてみれば、確かに、女性名というより官職だ。これは、「真の名を明かすことは、明かした相手に身を委ねることに等しかった」ため、一般的に名前を明かさなかったらしい。
それだけ、名前には魂があると思われていたわけだ。武士の名前も良く変わるが、それと関係あるのだろうか?
174:宮崎の空飛ぶものはたいてい飛行機というよりは飛行船
飛行船の方がより人間的だから?
宮崎は飛行というものが、全身的かつ全感覚的な行為でなければならないと思っている。
180:「天空の城ラピュタ」オープニング
まるで、バシュラールの「物質的想像力」の見本。古今東西の傑作を渉猟したバシュラールの詩学が、そのままアニメーションになったようなもの。
195:地平線を発明したのは人間の視覚
人は、遠い地平線を確認し、自身の世界の広さを引き受ける、あるいは広い世界に許されてある自分自身を自覚する。ここで重要なのは、地平線の遠さ、世界の広さは、自分の眼の高さによって決まって来るということ。だから人は木に登り、櫓を築く。
217:ル=グウィン『ゲド戦記』魔法使いたちが真の名にこだわる
清少納言や紫式部は、父兄の役職名を借りた仇名のようなもの。
真の名を明かすことは、明かした相手に身を委ねることに等しかった。
2022年02月06日
梨園
『悪人』の作者・吉田修一の最新作。歌舞伎役者が主人公で、語り口も、ナレーション風。
長崎で任侠一家の生まれ、後を継ぐつもりが、抗争で組長の父は殺される。仇を取ろうとして殺人未遂に。追われるようにして長崎を出た主人公が、その美貌を見初められ、上方歌舞伎の大名跡の一門へ入門し、芸を磨いていく。
戦後の混乱が収束していく中で、高度経済成長の波に乗って、「実業家」「政治家」として組の近代化を図っていく組と、その波に乗れず、逆に裏家業一切を引き受けていく組。組の「実業」の中には芸能界も含まれ、最近まで続く。
梨園の由来が、「唐の時代にあった宮廷音楽家の養成所の名」とは知らなかった。
22:世知に長けた宮地組の大親分は付き合いの長い関西の兄弟たちの力も借りまして、本格的に土建業界に進出し、娘婿などの身内を次々と県議会議員、市議会議員に当選させながら、県の土木予算をがっちりと握ってまいります。
75:長崎ブーム
青江三奈の「長崎ブルース」、瀬川瑛子の「長崎の夜はむらさき」と名曲が続くなか、ライバル店だったキャバレー「銀馬車」の専属バンド、内山田洋とクールファイブが満を持してデビューしまして、日本中がご承知の「長崎は今日も雨だった」の大ヒットも誕生するのでございます。
123:義太夫劇=人形浄瑠璃
たとえば『義経千本桜』や『菅原伝授手習鑑』のように、元は人形芝居で上演されたものが、のちに歌舞伎に形を変えまして、人気演目となったものでございます。
285:梨園
唐の時代にあった宮廷音楽家の養成所の名ではありますが、実はそのように優雅なものではなく、傍目には歌舞伎役者の家族というのはどこも仲良さそうに見えるようでございますが、それはまさにジャングルの獣の一家と同じで、仲が良いのではなく、この生き死にがかかった世界を、一丸となって生き抜いていかなければならないからでございましょう。
2022年02月05日
アーウィン・ショーへの憧れ
「男の哀愁、にがい自嘲や挫折感、にもかかわらず何かにもう一度賭けてみようとする心意気」・・・アーウィン・ショーの小説にほれ込んだ著者は、その洗練された感覚と技巧を「なんとか盗みたいと願いつつ」これらの短編を創った。
――女性ミステリー作家が”男の涙”を主題に据えて、思いやりと憧憬をこめて描く都会ミステリーの極致。
と裏表紙の紹介にはある。ミステリーはあまり読まないので、小泉喜美子は初めて。高松の本の師匠に以前いただいたままになっていたのを読んでみる。
13:たいていの無力でめめしい人間がそうであるように、わたしもまた、みずからの大部分をろくでもない記憶の積み重ねで作っている。おぼえている値打ちのないこと、おぼえていたってどうにもならないこと、おぼえていることによってかえって心打ちひしがれ、足手まといになるような、まったくのろくでもない記憶がその大半を占めているのだ。
19:そう、そのときどきで言い分をくるりくるりと変えられるのは彼の数少ない才能の一つなのだ。そして、そんなことはいっさい恥ずかしいと思わずにいられる才能も。
2022年02月04日
「もののけ姫」をシュンペーター的に見る
Joseph Schumpeter(1883-1950)は、チェコ生まれ、オーストリア育ちの経済学者。後にアメリカに渡り、ハーバード大学で教えた。創造的破壊が経済発展の原動力であり、それを担う企業家の役割を最初に主張した人として知られる。
シュンペーターは、マルクスを「経済学を一個の社会科学にした」ということで激賞する一方、その理論の骨格をなしている「資本家が労働者を搾取する」という考え方をまったく相手にしなかった。
シュンペーターは、マルクスを「経済学を一個の社会科学にした」ということで激賞する一方、その理論の骨格をなしている「資本家が労働者を搾取する」という考え方をまったく相手にしなかった。
121:シュンペーター『経済発展の理論』階級闘争なんてものはたいしたことではない、技術革新こそが経済の原動力であり、それを担うのが企業家なのだ。
144:地平線喪失
「ブレードランナー」ラストシーン〜ひたすら薄暗かったそれまでの映像とは一転して明るい森林上空をただ飛行していくだけ。映画の主題が「地平線喪失」であったことが分かる。
157:もしも「私たちが汚れそのものだとしたら・・・」?
アニメーション映画「風の谷のナウシカ」と長期連載漫画『風の谷のナウシカ』はまったく別物。本質が違う。物語と思考ほどに違う。
漫画『風の谷のナウシカ』は、「私たちが汚れそのものだとしたら・・・」という問いかけのために描かれているのであって、映画「風の谷のナウシカ」はその問いをむしろ逆に覆い隠すように仕上がっている。
166:もののけ姫「いやあ、まいった、まいった。馬鹿には勝てん!」
「与えられた状況から身を引き離し、新しい眼で事態を眺め直す能力」の発揮。
→シュンペーターの技術革新と創造的破壊こそが人類史を形成してきたものだという思想。
技術革新や創造的破壊が惹き起こされるのは、与えられた状況から身を引き離し、新しい眼で事態を眺め直す能力が人間にはあるから。そういう意味で企業家と芸術家は似ている。
直立二足歩行によって眼を空中に浮かべたことこそ、最初の技術革新、最初の創造的破壊だったかもしれない。
2022年02月03日
飛翔する力がジブリを創った
第3章は「飛翔する力がジブリを創った」。話は、5億年前のカンブリア紀から始まる。
カンブリア紀は「生命の大爆発」が起こった時代として知られている。それは、「眼の誕生」によって起こった。生命体に視覚が発生し、「光を感知する器官ができたことによって、捕食するものと捕食されるものが明確化した」。
88:騙すこと、欺くことが豊かさを生んだ世界が総天然色になった瞬間、生命は騙し騙される世界へと突入した。他者の身になれるかなれないかが生死を分かつ世界である。
「騙し騙される世界になったからこそ、他者の身になることが意味を持つ世界になった」。
99:左翼活動家の多くは、レーニン、スターリン、毛沢東、小平と、共産主義が一貫して悪を実現してしまったことから、生態学をそれに代わりうる正義であるとして環境保護活動家に衣替えしていきますが、高畑にはその典型のようなところがある。
101:「かぐや姫の物語」はなぜ傑作か?
宮崎が高畑に惹かれたのは、秀才の眼の見通しの良さでしょう。マルクス主義から生態学までの広い知識、そしてとくに音楽の知識とその感覚の良さです。多くの作曲家を遍歴したうえで、久石譲に的を絞ってその才能を開花させた、その感覚の良さ。
2022年02月02日
なぜ宮崎アニメでは空を飛ぶのか
第2章は、「なぜ宮崎アニメでは空を飛ぶのか」。
そういわれてみれば、初期のTVアニメ作品から、大作映画まで、宮崎アニメではそれが約束事であるかのように、主人公が空を飛ぶ。
そのシーンがこれ。44:連続アニメ「赤毛のアン」オープニングシーン人間にとって飛翔するとはどういうことかを、ものの見事に描き切っている。
だという。宮崎アニメ登場のはるか前、このことを扱った思想家がいたらしい。本作を読んでいた著者は、「赤毛のアン」を見て、「なんだこれは、まるでガストン・パシュラールの想像力論の映像化そのものではないか」と思ってしまったという。45:「歓びの白い路」のシーンが示すもの夢想すなわち想像力がアニメーションの最大の特徴であり出発点であるとすれば、アニメーションとはすなわち飛翔のこと。
60:パシュラールのフロイト批判1943『空と夢〜運動の想像力にかんする試論』飛翔の夢を扱う。パシュワールと宮崎駿の思想的な近さ。
68:反証可能性
科学の仮説は、その仮説に反証を突き付ける条件が可能性として含まれていなければ科学とは言えない、つまり反論を封じる宗教のようなものにすぎない。これによって宗教の烙印を押された代表がマルクス主義と精神分析の二つ。
2022年02月01日
絵より先にアニメがあった
スタジオジブリ作品の魅力の源泉を、芸術の本質、歴史から解き明かすという、ほとんど専門書。第一章は「絵より先にアニメがあった」。
8:スタジオジブリの作品が人々の心に残るのはなぜか
アニメーションの魅力を全面的に開花させたのが、高畑勲さん、宮崎駿さん。
という問いが本書のテーマなのだが、では、「アニメーションとは何なのか」から入る。
10:アニメ・ルネサンスなるほど、そう考えると、アニメーションだけでなく、映画全体が「観念を身体化する芸術」と言える。だから、
パフォーミング・アーツは身体を観念化し、アニメーションは観念を身体化する芸術。
11:「エイリアン」と「ブレードランナー」はアニメということになる。
映画という芸術のなかにアニメーションがあるのではない、逆に、アニメーションという芸術のなかに、俳優の実写を中心とする映画なるものもある。
16:ゴンブリッチ『芸術と幻影』に潜在する主張さらに言えば、
20世紀アニメ・ルネサンスは、視覚芸術史上の大事件。
ルネサンスにおける最大の発明は遠近法による作図(透視図法)と、それに密接に関係する影の描き方。この着想がヨーロッパ近代の科学的思想と密接に繋がっている(パノフスキー)。
32:ルネサンス絵画の本質はアニメであり、確かに、ルネサンス絵画がアニメになった作品を見たことがりますね。あれはCMだったか?
彼らの絵をもとにしてアニメが作れるように出来ている。原画もキャラクターも台本も全部そろっている。